一つの終着と泣き声はロック
年末だった。
一つ、ある種の終着を感じる出来事があった。
詳しくは書かない。
前向きな終着で、自分は当事者ではない。
ただ、ずっと比較的近い場所で、大変なことがバンバン起きているのを見ていた所に、救いのようなものを感じる出会いがあったことを知った。
それは当人が、何が起ころうとも折れたり曲がったりせず、自分なりに頑張ることをやめなかったからあったことだった。
と私は感じた。
一つの大きな流れの終着のようなものを見た気がした。
いや、人生は続く限り終わらないし、他人がハッピーエンドを定義することはできない。
ただ、人生の中にある一つのターニングポイントに、素敵な形でたどり着いた姿を見せて貰った。
報われるとも少し違う。
じっと漕ぎ続けていた舟が、美しくて優しい場所へたどり着いた。
そんな気がした。
そんなことが起こるといいな、と私は常日頃から思っているが、
そんなことはなかなか起きないこともいい加減知っている。
だからこそ、心から嬉しかった。
別件。
年末で、実家に帰省していた。
赤ん坊がいるので、あやしたりしていたが、
赤ん坊の機嫌は万華鏡のようだった。
5秒前までニコニコ笑っていたのに、5秒後爆泣きしているみたいなことが、寝ている時以外繰り返される。
疲れてわりとすぐ家族にバトンタッチする。
子育ては自分には無理そうだという気持ちを新たにした。
しかし、子どもは可愛い。
テレビでは紅白を流していた。
某ロックバンドが出ていた。
そんなものお構い無しに、赤ん坊はこの日で一番の泣き声を上げた。
何よりも、ロックな気がした。
赤ん坊の泣き声はロックンロールだ!
ロックンロールがなんなのか知らないが、
なぜか反射的にそう思った。
そして、甲斐甲斐しく世話をする家族の姿を見ていると、どれほど辛い人間に寄り添った音楽のような娯楽も、
子育てを前にするとどこか全て贅沢な遊びのように思えてきた。
日常、一人で暮らしている時は、何回もそういった娯楽に救われているのに。
だが、家族が寝静まって、深夜の歌番組を観ていたら、やはり音楽は良いものだと感じた。
赤ん坊の機嫌並みに、私の考えも光速で変わる。
別件。
年始早々、インフルエンザになった。
まだ実家にいる時だった。
もう次の日には自宅へ帰るつもりだった前夜に発症。
親元を離れてから、
体調を崩す=孤独に痛み・不調に耐えるのみ
だったが、久しぶりに家族に看病され心配されている。
随分、自分が気を張って生きていたことに気付かされた。
ある程度の気張りは必要だと思う。
そうしないと渡り歩けないことが多い。
もう良い大人だ。
甘やかされ続けるわけにはいかないし、それが許されるとも思えない。
私は極端なところがあるので、
一度気を張ると結構極端にビリビリと気張る。
少しも綻びを見せてはいけないような、そんな気になる。
どこか、実家とももっと距離を取らねばならないと捉えていた。
一人の大人として尊重しあえるのがベストだと思う。
だから、距離感に非常に気をつけていた。
友達には少し悪く言ったりもした。
でも、そんなことしなくていいんだと思った。
今は素直にただ優しさを受け取って、ありがとうと言いたい気持ちで、実際そうしている。
素直に優しさを受けとることが私はいつの間にか苦手になっていた。
何かお返ししなきゃいけない義務が、優しさをかけられた瞬間から発生するような気になっていた。
でも、お返しなんてそうそうできない。
そして、優しくする方は、大抵の場合見返りなんて求めてないのだ。
なんとなく、この調子で過ごせたら、今年は色んな人に対して素直に暮らせそうだ。
一人に戻って持続するのは難しいかもしれないけれど、今はそんな気持ちでいる。