悪人の愛犬
醜悪としか言いようのないクレーマーに、店員の立場で何度かでくわしたことがある。
小悪党程度のクレーマーは日常茶飯事なので、今となっては誰のことも覚えていないが、
時々やってくる悪党と呼んで差し支えない醜悪なクレーマーのことは何年経っても忘れていない。
この人のことを、誰かが愛していたりするんだろうか。
そういうことをよく思っていた。
クレーマーに対峙して精神をやられないための考え方と言われているものはいくつかある。
まず相手が大分年上の場合は、「この人は自分よりかなり早く死ぬのだから気にするな」という考え方。
よく言われている考え方だと思うが、私はこれが全然理解できない。
死ぬからなんなんだと思う。
クレームを言っている現在、即死するならいいが、そんないつくるかわからないクレーマーの死で私は救われない。
あとは、「その人が赤ちゃんだった頃を想像する」というもの。
これもよくわからない。
皆赤ちゃんだったんだと思えば少し気持ちが晴れるという話らしいが、全然ダメだ。
今は赤ちゃんじゃないからだ。
口の端に泡をつけながら店員に絡んでる奴らが、今すぐ赤ちゃんに戻るとかならいいが、過去どれほど可愛い赤ん坊であったとしても、現在は醜悪なクレーマーなのだ。
許さん。
では、どう考えればいいのだろう。
彼らがめちゃくちゃ酷い死に方をすることが確定しているとかなら、多少溜飲が下がるかもしれない。
でも、実際にそれを私が知ることはない。
この人のことを、誰かが愛していたりするんだろうか。
そう思ったあとは必ず、「いやそんなわけはない」と頭のなかで強く否定した。
きっと誰にも愛されてはいない。
家で、職場で、違う店で、この人は全員に対して醜悪なのだろう。全員になんだこの醜悪な人間はと思われているのだろう。
なんなんだその生き方は。
もう私はクレーマーに出会うような生活はしていないが、今もふいに彼らの醜悪さを突発的に思い出す。
今日、通勤途中の駅の階段をのぼりながら、彼らが死んで悲しむ人は恐らく一人もいないんだろうなと思った。
そう思った直後、なぜか大きな犬を散歩させているクレーマーの姿が頭のなかで再生された。
そんな光景を実際に見たわけではない。
だが、こういうワンシーンもありえるのかもしれない。
悪人でも、飼い犬には愛されているかもしれない。
犬は健気だからだ。
悪人であっても、犬には愛されているのかもしれない。
愛を向けられたことのない悪人は、唯一愛してくれる犬のことを、愛しているのかもしれない。
そう考えると、少し落ち着いた。
彼らのことは許さないが、彼らを愛する犬がいると仮定すると、少し気持ちが落ち着く。
犬に免じて見逃してやろうという気に少しなる。
見逃すというのは、彼らが即死することを願うのは今日のところはやめておくという意味で、醜悪な行いのことは絶対に許さないけれど。
今後許せない悪人に遭遇し、自分の怒りがいつまでも収まらないときは、一度考えてみることにする。
彼らを愛する犬のことを。