まだ寝てていいよ

思いついたことをテキトーに

それがお前の人生か

 

マッチングアプリを昨年は結構長い期間やっていた。

誰とも会ってはいない。

やめてしまったので、若干記憶が曖昧なところもある。

 

非ユーザーにわかりやすく言うと、転職サイトの人間バージョンみたいな使用感のアプリだ。

アプリの種類は複数あるものの、内容的には大体全部一緒だ(と私は思った)。

 

プロフィールを作る際に、予め質問項目があり、それを選択する欄がある。

例えば、結婚願望について、すぐしたい・いずれしたい・考えていない等。

 

その中で、子どもは欲しい・欲しくない・相手と相談したいというものがあった。

 

私は女で、男性と出会うタイプのアプリをしていたのだが、

男性がこの質問項目に「子どもは欲しい」と答えていることに若干の違和感があった。

 

そして、違う質問項目に、家事育児の分担について希望を選択する箇所があり、

子どもを欲しい言っている人が、家事育児は二人でシェアしたいという項目以外を選んでいることも多かった。

できれば参加したい、積極的に参加したいといった項目だったと思う。

 

参加ってなんだ?と思っていた。

あなたの家事であり、育児ではないのか。

大人が、家の中のことを自分のものだと思えない感覚がよくわからなかった。

 

そんな状態で、子どもを欲しいと言えるのも、正直なんだかよくわからない。

生むのは女性側で、体に負担がかかる命がけのことだ。

相手がいない段階で、それを堂々と書くことに対して抵抗はないのか。

 

まあ、とにかくそんな感じだったので、いちいちモヤモヤしてしまい、結局続かなかった。

 

先日、Eテレを観ていたら、代理母出産について演者が話し合う一幕があり、その中で「他人の体を使って自分の自由を追求するのか」といった議論があった。

 

私が感じていた違和感の正体だと感じ、しばらくぼんやりとしてしまった。

 

別件。

 

以前女性向けの風俗について軽く調べたことがあった。

 

単純に、男性と縁がないわりに、心身が健康で欲求はあるので、じゃあ風俗でいいんじゃないか?と安易に思ったのだ。

でも、調べていくうちに滅入った。

 

これは風俗全般に言えるが、値段に換算しちゃいけないものに値段がつけられて流通していると私は感じた。

ものすごくプライベートなものを、他者から供給してもらおうとしている。

いくら、ルールを守ってちゃんとお金を払ったとしても、自分の中の道徳に反することはできない。

 

これもまた、他人の体を使って自分の自由を追求することだった。

 

マッチングアプリもやめて、風俗利用について検討するのもやめたのには、考え方の転換があったからだ。

 

恋愛も性愛も楽しめなければ人生損なのではないかと、私は長年思っていた。

例えばアセクシャルであれば、元々そういう願望がないので、ない状態が自然なのだが、私の場合はあるのにできないという状態が続いている。

ならば、行動しなければならない。

そう自分に課していた。

 

だが、そこに私の幸せはない、ということに気付いた。

恋愛や性愛を獲得しようとしていたのは、自分の幸せの代替品を求めていただけだ。

 

恋愛感情があって、性欲もあって、恋愛や結婚に特に大きな壁はなさそうな人間でも、恋愛や性愛に自分の幸せがない場合もあるのではないか。

という考えに思い至った。

 

少なくとも、歯軋りしながらマッチングアプリを眺めている状態の自分は、幸せとは言えなかった。

 

私らしさなんてものは、ただ生きていれば、ここにあるものだと思うが、それでも、肩の力を抜いて優しい気持ちでいる状態から遠い自分を、自分らしく居られているとは、言うことができなかった。

 

街コンに行こうと思うんだけど、めちゃくちゃ行きたくないんだよね!と友人に話したら、

やりたくないならやらない方がいいよと言われた。

 

ものすごく当たり前の話なのに、恋愛をゲットするには多少の困難は乗り切らねばならないし…と思っていた。

 

やりたいことを見つけるというのが、とても難しいものだと思っていた。

しかし、むしろそれこそが勘違いだった。

私は、ただ家でのんびり過ごしてお茶を飲んだり、友達と美味しいご飯を食べたりするのが好きだ。

本や漫画を読み、音楽を聴いて散歩し、楽器を弾くのが好きだ。

それが私のやりたいことだった。

 

手元にないものの中に、自分の知らない凄まじい快楽があるんじゃないかと、私は本気で思っていたのだ。

他人の定義した華やかな物事に、飛び込めないでいてはダメなのではないかと。

それが自分にとっては空虚で無価値なものである可能性を疑わずに。

 

私は、他人の人生を生きようと頑張っていたのか。

そんなことしなくていいのに。

 

もっと、今まで生きてきた自分を信じよう。自分の手綱を自分で引こう。

そのようなことを思った昨年後半だった。