マザコンとして生きる全ての大人たち
わりとマザコンだと思う。
時々、母がいなくなったらと考えるだけで、どうすればいいのか本当にわからなくて、結局考えるのをやめる。
母が既にいない誰かに、お母さんがいなくなった後の世界の苦しさや悲しみをどう乗り越えて暮らしているのですか?と聞きたくなる。
でも、そんなこと聞けない。
デリカシー、いやデリカシー以上の何もかもがない質問だ。
私は、自分がマザコンであることを早くから自覚していたし、恐らく母も自分の言葉や行動が私に与える影響の大きさをわかっていた。
だから、私は家を出た。人生の重要な事項は相談せずに一人で決めた。母もそれらには何も言わなかった。
急に全部やると、身を切り裂かれるような別離の痛みを伴っただろうが、ちょっとずつやったので、どれも少しの痛みだった。
でも、なんだか、本当にそんな痛みを抱いてまで、あの大好きなお母さんのそばから離れる意味なんてあったのかなと時々思う。
実家に住んだまま、何でもかんでもお母さんに相談し決めてもらって、お母さんとたくさん喋って、家事を一緒にやって、お父さんとも喋って、美味しいものを食べて、みんなで黙ってこたつに入っていたかった。
お母さんもお父さんも、それぞれの母(私の祖母)を亡くしている。
その悲しみをどうやって乗り越えて、温かな生活を続けたのだろうか。
乗り越えるというより、折り合いをつける、ということなのかもしれない。
誰かの不在が、別の誰かの登場で代替がきくのは、仕事くらいじゃないかと思う。
かけがえがないからこそ、私たちはその人を愛する。
どう折り合いをつけるのか。つけられる折り合いなのか、それは。
ネットを見ていたら、数日前のテレビで婚活女性の特集があり、その女性が実家暮らしで母に縛られている部分などに批判があったと目にした。
実際の番組を見ていないので的外れかもしれないが、その女性は特に自由を奪われているわけではなく、家を出ていこうとすれば出ていけるような印象だった。
なら、別にいいのではないかと私は思った。
実家に住み続けて、お母さんの庇護下にずっといることを選択していること。
それの何がいけないのか、私にはよくわからない。
世間的な常識では、成人したら自立せよというのがある。
でも、そんなものが、一体なんだっていうんだろう。お母さんだぞ?と思う。
お母さんの前に、常識だの世間だの、そんなのなんだっていうんだ。お母さんより大切か?
時間は有限だ。お母さんと大人の私が過ごせる合計時間はあまりにも短いのだ。
でも、じゃあ、今すぐ実家に帰ってずっと住んでもいいですよと言われて、私はそうするかというと、多分しない。
お母さんの子どもである私。それは私の一面だ。
それ以外の面がある。それ以外の面の数が増えた上に大きくなりすぎた。
この私では、もう実家に住めない。
書きながら気付くが、「お母さんの子どもである私」のままで結婚を望んだから、その女性はバッシングされたのか?
そのこと(自立せず結婚を望む)の是非はわからない。
が、なんでそこまでして結婚がしたいのかと不思議には思う。
「お母さんの子どもである私」のまま、このまま行けるところまで行けばいいじゃんと。
せっかくここまで来たんだから。
かけがえのない存在がいつかいなくなったとき、救済されたければ、結婚し自分の家庭をもっておくしかないのだとしたら、あまりにも希望がない話だと思う。
だからこそ、自立する必要があるのか。
と、これまた書いていて気付く。
自分の足で立っていられるために。
働き、自由を得るためのお金を稼ぎ、自分のことを自分で考え決断し、生活を回し、体をケアし、何かを好きになったり嫌いになったりし、理不尽なことに見舞われながら闘って、落ち込んで立ち直って、どうにか暮らすこと。
私の人生の舵取りを続けること。
苦しくても、それを選ぶこと。
マザコンな私のままこれからも生きるだろうが、マザコンにならざるえなかった昔の自分ではないと思う。
色々な私の中に、マザコンな私がいる感じがする。
昔はお母さんが好きであることを、肯定できていなかった。
だから、自立しなきゃならないと思ったのだ。こんなみっともない自分ではいられないと。
結果、お母さんが好きなことは否定しなくて良いものとなった。
だからこそ、お母さんのそばにいられないことがまっすぐ悲しいのだけど。
矛盾なようでいて、全てはつながって今に至る。