まだ寝てていいよ

思いついたことをテキトーに

その本はいつか誰かの

 

実家に一時的に帰省することにした。

頻繁に帰省しないので、実家に置いておきたい荷物はないか整理する。

 

児童書が10冊程出てきた。

全て同じ著者のものだ。

今の自宅に引っ越してきた時点で私は既にとっくに成人していた。

それでも、読むかもしれないと思って持ってきていた。

 

本は厄介だ。

テレビの録画も「まだ見るかもしれない」と思って消せない。

テレビはデータだから、まだいいが、紙の本はよほどじゃないと手放せない。

 

読みたい!という衝動は急なものだ。

その瞬間を逃せば、次がいつかもわからない。もう来ない場合もある。

私は、読みたい!という衝動に身を委ねる心地よさを、とても大切にしている。

その衝動のまま行う読書体験ほど、気持ち良い読書はないからだ。

 

この児童書は、何度も「読みたい!」の衝動があったもので、その都度読んできた。

だが、気付く。

もう長らく読んでいない。

新刊は手付かずでビニールにくるまったままだった。

 

あんなに夢中で読んだのに。

もう、私にはこの著者の作品が必要だった時代は通りすぎたのではないだろうか。

 

感性が合わなくなった本や、初見で合わなかった本は売るようにしている。

小銭が欲しいのもあるが、捨てるよりは、誰か必要な人の手元に届く可能性があるからだ。

私には不要でも、この本を必要とする誰かが、どこかにいるかもしれない。

 

でも、この児童書を売るなんてできない。

あまりにも何度も読んだ。

何度も読んで、私の感性の礎になった一つだ。

 

もう私には、必要ない。

それでも、手放すことができない。

 

子どもを生む予定も家庭を持つ予定もない。

だが、もしかしたら、いつか、私の身近な子どもが、この本を読んでくれるかもしれない。

 

可能性の低い話だ。

古本屋に売った方がまだいいだろう。

それでも、愛着というのは厄介なものだ。

 

紙の本は重いし、場所をとる。

でも、手放さないかぎり、必ず存在し続ける。

たとえ内容を忘れても、また読み返すことができる。

本は無くならないから。

 

その本を愛したその時の自分まで、ちゃんと残ってくれる。