まだ寝てていいよ

思いついたことをテキトーに

ピントの合った世界を歩く

視力が低下しています。眼科へ行って下さい。

そう健康診断で言われてから、約半年経過し、やっとメガネをつくった。

 

流行っているデザインのものにした。

かけてみたら今時の顔になった。

それがとても嬉しかったから。

 

メガネをかけた自分の姿がまず可愛い。

そしてこんなに視界がクリアだったのは、いつぶりだろうか。

全部見える!!と思った。

いや、実際はメガネを通しても見えなくなっているものも全然あるんだけど、そんな気分だった。

 

退勤後、色々なものが見たくて外へ飛び出した。

在宅勤務の狭い部屋では、遠くを見ようとしても限界がある。外はいくらでも距離のあるものが見えた。

ずっとぼやけていた数百メートル先の街灯、頭上の看板の文字、遠くの信号機。パン屋のパン、自販機、コンビニの貼り紙。

全部、見える!!!!

それは、かつての私が見ていた世界だった。

いつの間に失われていたのかもわからない。

見えにくくなっているのはわかっていたのに、メガネをかけて初めて、見えていなかったことに気付いたのだ。

 

嬉しくて嬉しくて、叫びだしそうだった。

叫べないので歌いたかった。

歌ってもまずいので、マスクの中で口パクしていた。

走りたかったけど、メガネに何かあったら嫌だから、ズンズンと大きく速く歩いた。

 

こんな高揚感もいつぶりだろう。

この街に暮らして3年は経つ。

まだこんな気持ちで散歩ができるのか。

ピントの合った世界は不思議とそれだけで新鮮だった。

 

マザコンとして生きる全ての大人たち

わりとマザコンだと思う。

時々、母がいなくなったらと考えるだけで、どうすればいいのか本当にわからなくて、結局考えるのをやめる。

 

母が既にいない誰かに、お母さんがいなくなった後の世界の苦しさや悲しみをどう乗り越えて暮らしているのですか?と聞きたくなる。

でも、そんなこと聞けない。

デリカシー、いやデリカシー以上の何もかもがない質問だ。

 

私は、自分がマザコンであることを早くから自覚していたし、恐らく母も自分の言葉や行動が私に与える影響の大きさをわかっていた。

だから、私は家を出た。人生の重要な事項は相談せずに一人で決めた。母もそれらには何も言わなかった。

 

急に全部やると、身を切り裂かれるような別離の痛みを伴っただろうが、ちょっとずつやったので、どれも少しの痛みだった。

でも、なんだか、本当にそんな痛みを抱いてまで、あの大好きなお母さんのそばから離れる意味なんてあったのかなと時々思う。

 

実家に住んだまま、何でもかんでもお母さんに相談し決めてもらって、お母さんとたくさん喋って、家事を一緒にやって、お父さんとも喋って、美味しいものを食べて、みんなで黙ってこたつに入っていたかった。

 

お母さんもお父さんも、それぞれの母(私の祖母)を亡くしている。

その悲しみをどうやって乗り越えて、温かな生活を続けたのだろうか。

 

乗り越えるというより、折り合いをつける、ということなのかもしれない。

誰かの不在が、別の誰かの登場で代替がきくのは、仕事くらいじゃないかと思う。

かけがえがないからこそ、私たちはその人を愛する。

どう折り合いをつけるのか。つけられる折り合いなのか、それは。

 

ネットを見ていたら、数日前のテレビで婚活女性の特集があり、その女性が実家暮らしで母に縛られている部分などに批判があったと目にした。

実際の番組を見ていないので的外れかもしれないが、その女性は特に自由を奪われているわけではなく、家を出ていこうとすれば出ていけるような印象だった。

なら、別にいいのではないかと私は思った。

 

実家に住み続けて、お母さんの庇護下にずっといることを選択していること。

それの何がいけないのか、私にはよくわからない。

世間的な常識では、成人したら自立せよというのがある。

でも、そんなものが、一体なんだっていうんだろう。お母さんだぞ?と思う。

お母さんの前に、常識だの世間だの、そんなのなんだっていうんだ。お母さんより大切か?

時間は有限だ。お母さんと大人の私が過ごせる合計時間はあまりにも短いのだ。

 

でも、じゃあ、今すぐ実家に帰ってずっと住んでもいいですよと言われて、私はそうするかというと、多分しない。

お母さんの子どもである私。それは私の一面だ。

それ以外の面がある。それ以外の面の数が増えた上に大きくなりすぎた。

この私では、もう実家に住めない。

 

書きながら気付くが、「お母さんの子どもである私」のままで結婚を望んだから、その女性はバッシングされたのか?

 

そのこと(自立せず結婚を望む)の是非はわからない。

が、なんでそこまでして結婚がしたいのかと不思議には思う。

「お母さんの子どもである私」のまま、このまま行けるところまで行けばいいじゃんと。

せっかくここまで来たんだから。

 

かけがえのない存在がいつかいなくなったとき、救済されたければ、結婚し自分の家庭をもっておくしかないのだとしたら、あまりにも希望がない話だと思う。

 

だからこそ、自立する必要があるのか。

と、これまた書いていて気付く。

自分の足で立っていられるために。

働き、自由を得るためのお金を稼ぎ、自分のことを自分で考え決断し、生活を回し、体をケアし、何かを好きになったり嫌いになったりし、理不尽なことに見舞われながら闘って、落ち込んで立ち直って、どうにか暮らすこと。

私の人生の舵取りを続けること。

苦しくても、それを選ぶこと。

 

ザコンな私のままこれからも生きるだろうが、マザコンにならざるえなかった昔の自分ではないと思う。

色々な私の中に、マザコンな私がいる感じがする。

昔はお母さんが好きであることを、肯定できていなかった。

だから、自立しなきゃならないと思ったのだ。こんなみっともない自分ではいられないと。

結果、お母さんが好きなことは否定しなくて良いものとなった。

 

だからこそ、お母さんのそばにいられないことがまっすぐ悲しいのだけど。

矛盾なようでいて、全てはつながって今に至る。

 

一例としての私

 

hpvワクチンを接種しようと決めたのは、11月頭のことだった。 

夏場に行った婦人科でたまたまワクチンの話になり、今からでも打ったらいいという話をされた。

それ以来数ヶ月迷っていた。

 

打つ!と決めた決定打は、V6の解散ライブを見たからだと思う。

彼らは今までも、その日のライブでも、ファンが楽しく生きていくことを願ってくれた。

V6に願われちゃ幸せになるしかないよね~

という気分になった。

 

その一歩としての決断だった。

hpvワクチンは、成人が打つとなると自費だ。

私が打つことにした9価は昨年認可されたばかりの種類で、トータル10万円ほどかかる。

 

じゅ、10万円…!?

と最初知ったときは驚いた。

何の補助もでない。

これから先、私は誰ともふれあわないかもしれない。(hpvの感染経路は主に性的接触だ)

10万円使って、3回(hpvワクチンは半年で3回打つ)痛い注射を打ち、それが無駄に終わる可能性がある人生。

というかこのままの暮らしをしていればその可能性が大きい。

無理だ、自分にはそんなお金を出すことはできない。

 

それが夏の自分の結論だった。

 

常に、何事も無意識の中で諦めのフィルターがかかっている。

お金がないから、頭が悪いから、もてないから、自分にはできないから、自分のような人間には無理だから、といったようなフィルターが。 

私がこれからの人生で他人と親密に関わる可能性を考えることは、起きる可能性のごく低い無駄な期待で、諦めておかないといけないことのようにどこかで思っていた。

 

V6のライブを見終わったときに、そのフィルターが一瞬外れた。

私も結婚するかもしれない!

家族を持つかもしれない!

望みや行動は、ありえないと他人に唾棄されるようなことではない。

 

そうだ、前向きに生きるために、ワクチンを打とう。

 

思考の前後の繋がりをうまく説明できないが、そんな風に思った。

私のこれからの人生と身体を肯定するためのワクチンだ。

 

悩んだ期間のわりに、接種自体は決めればあっという間だった。

在庫を確保していない病院は取り寄せに時間がかかるそうだが、確保してる病院なら前日に予約しても大丈夫だった。

 

問診やワクチンダイアリーというサイトの登録(住所氏名などを入力する)が必要だったりと、手続きはインフルエンザのワクチンと比べれば多かった。

注射も痛かったが、まあ3秒くらいのものなので、うっ…とうなってるうちに終わる。

 

打った腕は数時間後から触ると痛んだが、大した不便はない。

接種はあと二回ある。無事終わらせたいところだ。

 

納得して決めた上に一回打ち終わったのにまだ、本当に良かったのか?とも思ってしまう。

ここまで高額じゃなければなあとどうしても思う。どうにかして欲しい。

 

ここ数ヶ月情報を調べるなかで、小中高校生の親世代が娘に9価を自費で接種させるか、無料の4価か2価を打たせるか葛藤しているのを見かけた。

4価や2価ももちろん効果は見込めるが、9価のカバー率は90%と言われていて、かなり高い。

こういう葛藤の解決、政府がどうにかしてくれないの…!?とどうしても思った。

自費の接種は、せめて差額の五万円分補助が出たら大分違うのにな。

(2価や4価は自費だと五万円前後だ)

 

そもそもが後手に回っていた存在でもある。

また接種を推奨していく動きがでてきているそうだが、とにかく希望したら気軽に接種できるようになって欲しい。

女性が対象の医療関連が後回しにされがちなのは、本当にどうにかすべきだと強く思う。

 

毎回青春

前回の記事できめつの刃にはまったと書いたが、引き続きはまっている。

特に好きなキャラクターもいて、特定の推しキャラができるのは本当に久しぶりだ。

本気で結婚したい。

 

私は二次元三次元問わず推しができると大体の場合、一時「本気で結婚したい」と思う。

その気持ちが必ず落ち着いていくこともわかっている。

だから、この短い熱烈な期間を思いっきり楽しみたい。

 

それにしても、大人になれば手の届かない相手に対して「本気で結婚したい」とは思わなくなると思っていたが、全然思ってしまう。 

恋人もいない独身だからだろうか。

かといって、この調子だと恋人がいても結婚していても推しができるたび「本気で結婚したい」と思う気がする。

頻度は減るだろうが。

昔より沸点が上がっている。なかなか何にも夢中にならない。

 

この「本気で結婚したい」が必ずしも恋愛感情由来のものではないのも不思議だ。 

今回も、本気で結婚したいが、これが恋愛感情かというと違う気がする。

私なりの、最上級の愛を感じた時の語彙が「本気で結婚したい」なのかもしれない。

 

仕事・睡眠・食事以外のほとんどの時間をきめつを読むかきめつの二次創作を見るかに費やしている。

費やせども費やせども全然足りない。

まだ読んでいたい。

 

推しのことを思うと自然と口角が上がる。

うわー!と無意味に叫びたくなる。

楽しいが苦しい。苦しいが楽しい。この時間がずっと続けばいいと思うのに、いずれ終わってしまうものだとわかっている。

青春?

何かに夢中になる時間はいつでも青春なのかもしれない。

 

私だけまだ

 

土曜日にきめつの刃の映画をテレビで見て、

夢中になってしまった。

日曜日は天気が悪かったため、今日コミックを買いに出た。

 

外に出て驚いた。寒い。

私はまだ自宅だと半袖短パンで過ごしている。

部屋のつくりなのか、通気性が悪く、まだ暑い日が多いからだ。

そのノリで、ほぼ夏物で外に出たらもう外は完全に秋だった。冬の気配すらあった。

そういえば10分以上歩く場所へ行くのは数日ぶりだった。

秋のギアが上がっていることに全然気づいていなかった。

 

道行く人たちは、ほぼちゃんと秋物らしき服装だった。

自分だけがまだ夏だった。

 

コミックは無事入手した。

とりあえず映画になっていた話までの巻を買った。

面白い。こんな面白いものを自分は知らずにいたのか。

あんなに沢山売られているところを目にし、アニメもガンガン流れ、近所の小学生たちが大声でジャンプの話をしていたのに。

私だけが知らないわけないはずだが、私だけがこの面白さを知らないまま随分と盛り上がりを見送ってしまったような気分になった。

 

でも、漫画はタイミングが大事だったりする。

その時機にはまらなければ、面白いものも響かないことがある。

だから、きっと今で良かったんだろう。

 

キャラたちが本当に頑張る。

頑張るが、絶対に急に強くはならない。

時間がかかる。

そして傷ついた体は回復しないと動けるようにならない。

時間と休養の必要性をきちんと描いているのが少年漫画としては珍しい気がした。

(バトルものをそこまで通ってないので何とも言えない)

 

もう少し色々言いたいが、夜中なので寝ることにする。

 

閑話

まとまった一つの話題はないが、なんとなく思いついたことを三つ書くことにする。

 

・人と入る家の風呂

もうこの先の人生で、介護や育児などを除いて、性的な文脈なく人間と家の風呂に一緒に入ることはないのでは?と気付いて少し寂しい気分になった。

 

面白かったと思う。人と風呂に入るのは。

銭湯も大好きだが、家の風呂の楽しさはまた違う。

その楽しさを、もうこの先人とは分かち合わないかもしれないのか。

 

20代前半あたりのお金のない頃までならギリギリありえたかもしれないが、もう友達と一緒に風呂入ろうぜ!とはならないのがわかる。

言わないし、言われても困る。

でも、家の風呂で遊ぶのは本当に楽しかったのに。

 

こういう、思い至らないだけでもう二度と人としない行為は色々あるんだろう。

 

ハンバーガーセット

ハンバーガーセットを頼んで食べるとき、

ハンバーガーだけやたら急いで食べてしまう。

ハンバーガーをとにかくいち早く食わねばならないという焦りに襲われながら食べている。

美味しい。美味しいけど苦しい。焦っているから。

ハンバーガーを食べ終わると何かから解放された気持ちになる。

やっと落ち着いてサイドメニューをゆっくり楽しめる。

なんでだ?

 

・何の労いになるのか

基本的に会食を避けている。

昨年、友人が退職したので、その慰労会を今度世間が落ち着いたらやろう(会といってもサシ)という話をしていた。

その後、なかなか感染状況が落ち着かないまま年が明けた。

春になり、今度は私が仕事をやめたので、二人の慰労会をやろうね!と話した。

その頃、比較的感染状況は落ち着いている時期だったので二人でのちょっとしたご飯くらいは大丈夫そうではあったが、私が腹の調子を崩したため見送った。

また今度ね!

そう言っている間に、私も友人も新しい仕事を始めた。

季節は春から夏、秋へとまたいだ。

このままだとどちらかがまた仕事を辞めたり、何か違うでかいイベント(引っ越し・結婚など)が起きたりしそうだ。

やっと慰労会をできたときには、もはや何に対しての慰労なのかわからなくなっていそうだと思った。

 

晴れて、好きに飲み食いできますよという状況になったら、それまでの出来事を全てひっくるめてお疲れ様・おめでとう会として、やたら豪勢に開催したい。

 

 

生活のエラー

仕事を変えてからそれなりに経過したが、驚くほどに身に付いていない。

今までの職場でも最初の半年くらいはやばかったので、いつものパターンか?という気持ちもあるが、

いや今回は本当にまじでやばいパターン?という疑いが消えない。

 

できなさが苦しい。

この苦しさから逃れたくてもう辞めたい!と思いかける。

でも本当は辞めたくないのだ。

できるようになりたい。

ならば努力しながら続けるしかない。

でも、できない!!

負の思考ループに陥る。

 

一緒に働いている人々への申し訳なさや引け目もあり、精神は緊張状態が続く。

悪い癖なのだが、この人は内心めちゃくちゃ自分に対してイライラしているのでは?と邪推しすぎてしまう。

仮にイライラしていたからといって、それはどうしようもない話なのに。

 

在宅勤務で、出社するよりもコミュニケーションは取れない。

出社していた頃は何かと雑音がわずらわしかったが、顔を合わせて気軽に声をかけあう流れの中に自分たちの仕事があったのだということに気付かされる。

大して仕事が身に付いていない状態の在宅勤務の勝手が永久につかめない。

そもそも元々コミュニケーション能力はすごく低い。

低いからこそ、顔を合わせて、空気感など込みで伝えることでやっと伝わっていたことが沢山あったのだなと感じる。

 

とにかく今はこの状況を自力で打破せねばならない。

泣き言ばかりは言えない。

 

という風に鼓舞しながら、どうにかやっていたのがこの夏だった。

 

数日前、いきなり体調を崩した。

時世が時世なだけに、えっ…!もしや…!?という不安が頭をよぎったが、正直身に覚えがなさすぎるくらいに家(一人暮らし)に居るし、症状がずれている。ワクチンも接種している。

別の病気の疑いが有力だったが、病院にかかるほどのものかは怪しかったため様子を見ることにした。

 

似たような症状に覚えがあった。

数年前、不規則な時間帯で長時間勤務が当たり前だった仕事をしていた頃に出た症状だった。

 

自律神経が狂っている…?

それには身に覚えがあった。

 

私はこの夏、22:00~2:00の間に眠り、深夜目覚めて再び寝入れず、朝日が上ってから眠る暮らしをしていた。

家にいるため、恐らく体力を使わなすぎて長く眠れないらしかった。

トータルの睡眠時間は6時間以上確保できている日が多かったので、まあ大丈夫だろうと気楽に構えていた。

 

どうやら大丈夫ではなかったようである。

素人診断なので、本当に何か病気の可能性もぬぐえないが、体調を崩したことで危機感を覚えてから、夜に散歩を1時間し眠るようにしたら大分回復したため、大方当たっていたと思われる。

 

親しい人にも会わず、狭い家に一人でいて、ろくに出かけられず、仕事のできなさと向き合い続け、めちゃくちゃな眠り方を数ヶ月。加えて運動不足。

私はこの生活だと狂ってしまうらしい。

まあそれはそうだろうなという感想だ。

 

せめて気の許せる人と会えたらいいが、もうこの我慢を一体いつまで続ければいいのかもよくわからない。

感染しないための暮らしで体調を崩しまくっていては元も子もないはずだが、どうすればいいのかよくわからない。

 

一人でも楽しい生活をすればいい。それはわかっている。

というか、むしろ一人でも楽しんでる方だと自負している。

それでも、もうそろそろマジで限界だ。

映画や漫画を楽しむことと、友達と顔合わせて話すことが互換性あるわけなくない!!?

 

電話で話すこともあるけれど、直接でないと話す気にならない話題もある。

大分前に最後に友人に会ったとき、大した話はしなかったが、隣に座ってボソボソとどうでもいい話をした。

その時間にあった満足感を、電話が同じくらい与えてくれるかというとノーだ。

 

勘弁してくれー!とどこかへ向かって叫びたい。

とりあえず運動は組み込んだ方が良さそうなのでやる、くらいだろうか。今やるべきことは。

運動をしただけで、この心身の憂鬱が解決したら拍子抜けだけれど。

 

皆、正解がわからない生活をどうにか飲み込んで暮らしている。

あなたはどうやって自律神経を狂わせずに生活していますか?と道行く人に尋ねまくりたい気分だ。

 

ここ一年半の様子から、劇的に状況が良くなることはないのだろう。自分の心身を守る方向に生活の軌道を修正せねばならない。