まだ寝てていいよ

思いついたことをテキトーに

なんとなくのこと

 

仕事をせず一人暮らしだと、いくらでもだらけてしまえる。

だから、このブログを毎日一つは更新しようと、更新している。

今まで多少読まれることを前提に、テーマや主張が見えやすいよう、まとまりのある文章を意識してきた。

 

しかし、今日は本当に何もない。

1日寝ていた。

もう更新はやめようかと思ったが、そんな漫然とした日の、なんでもないことも書いてみようと思う。

 

昼に起きた。

ダラダラとそのままベッドでスマホを見る。

遮光カーテンのせいで日が入らない。

カーテンを開ければいいけど面倒で、薄暗い部屋では本も読めず、発光するスマホを見る。

 

3時くらいにやっと起き上がる。

単発のバイトを入れるため、バイト募集の電話をかける。

電話を終わらせ、台所へ。

水菜とツナのパスタを作る。

洗い物が溜まっていたので、作りながら洗う。

でも全部は消化できなかった。家事のなかで皿洗いが一番溜めてしまう。

無職になれば片付けると思っていたが、時間が沢山あってもやらないものはやらないんだなあと思う。

 

パスタを食べた。

暇なので母に電話する。

とりとめもない話をして切る。

 

録画している既に何回も見たアニメを流しながら本を読む。

眠気が襲う。

寝る。

起きたら完全に夜。

 

寝てただけなのに、腹は減る。

水菜ともやしと豚肉の鍋を作る。

食べ終わった汁でうどんを作る。肉も足した。

食べる。美味しかった。

 

満足してまたアニメを見ながら本を読み、スマホを触る。

 

今に至る。

 

 

歯医者と主張の電話

 

歯医者に行った。

 

治療の前に、「前回説明あったかと思うんですが、今回の内容は保険がききませんので」と言われた。

説明されていない気がする…

と思った。

私は忘れっぽいので、忘れてるだけか?とも思ったが、お金にはうるさい方なので、さすがにそれは忘れないだろう。

 

「前回言われてません。保険きかないんですか?」

そう言うと、前回私を診た先生へ確認をとってくれて、説明してなかったことがわかった。

その後、内容を確認して、保険がきく範囲で施術してもらえた。

 

言って良かったーと安心した。

私は、こういう時なかなか言えないことが多い。

 

手間取らせるのが悪いとか、面倒なことになったら嫌だとか、迷惑をかけたら…と思って言えない。

まあいいか、と飲み込みがちだ。

 

だが、現在私は無職なので、お金にはかなりシビアだ。

保険がきかないのは死活問題だ。

まあいいかと流せなかった。

 

だが、聞いて良かったし、そんな面倒なことにはならなかった。

 

別件。

数日前に就活関連で関わっていた人に、納得いかないことをされた。

一通り自宅で一人怒り散らしたので、もう気持ちは大分落ち着いていた。

だが、その人ととは今日も必要事項の電話をしなければならなかった。

無視して音信不通にしてしまうこともできなくはなかった。

だが、それをしては、きっと自分の中でわだかまりが残る。

 

晴れた春の爽やかな陽気の中、

用達がてら散歩しながら、

もう電話しなくても…

いや、でも…

うーん

と脳内で一人相撲をした。

 

爽やかな天候の下、和やかな気持ちでいたので、

一度落ち着いたトゲトゲした気持ちをまた持ち出すのが単純に疲れるなあと思えてきてしまった。

 

でも!

あれほど怒り散らした自分を忘れてはならない。

 

電話をした。

かける前に言うことはシミュレーションを何度かした。

多分実際の電話では、私は言えなくなるだろうと半分諦めていた。

 

いや、でも!言うんだ!

シミュレーションほど流暢には話せなかった。

しかし、思いの外話せた。

相手の反応からして、何とも思われてない様子ではあったが、私が理不尽を覚えたことは伝わったようだった。

 

電話を切る。

なんだ、こんなもんだったのか。

 

もっと揉めたり、相手が逆にイライラを表明してきたり、過剰に謝罪されたりして、

それにぐったり疲れることを想定していた。

 

しかし考えてみれば、今回の事は(納得いかず怒ったとはいえ)かなり些細な事だった。

「それは違うと思います」

「申し訳ありません、気をつけます」

これで済んで然るべき内容だった。

そしてそれで済んだ。

 

今まで、私は飲み込み過ぎてたんじゃないか?

 

だから、ずっとモヤモヤを忘れられず、相手にも自分にも嫌気がさしてしまう。

 

どの場面でもあまり主張できないので、

寛容な人間だと思われたり、単純に舐められたりして、相手の態度が悪化しがちだ。

 

寛容ではない。

どちらかというと導火線は短い。

だが、言えないのだ。

面倒事に発展したり、相手に嫌な気持ちを抱かせるのが苦手だ。

 

あと、自分の主張に正当性があるのか、自信がない。

極端だが、とんでもクレーマーみたいな視点から主張してる可能性もあるから、言わない方が無難と思ってしまう。

 

でも、言うだけ言ってみていいのかもと今日思った。

頭ごなしに怒鳴りつけるような主張方法でなければ、

私はこう思い納得できないのですが、くらいは言おう。

 

進歩だった。

 

 

花見

 

花見に誘ってもらったので出掛けた。

住んでる場所の桜はまだ満開ではない。 

でも十分綺麗だった。

 

私は桜がやたら好きだ。

3月は何かと毎年忙しく、辛い気持ちになる。

それでも4月には桜が咲く、だから頑張ろう。

そう思えるくらい好きだ。

 

今年は特に楽しみにしていた。

年々、桜を楽しみにする気持ちは強まっているような気がする。

 

桜の美しさは、住む場所が変わっても一定だ。

それなのに、年によってなんとなく感じ方が変わる。

ハッとするほど美しく思う年、そこまで綺麗だと思えない年。

 

今年は正直、期待値を上回っていない。

楽しみにしすぎたようだ。

 

この感覚はなんなんだろう。

他の花にはここまで強い感情はない。

(美しいとは思う)

 

 

長らく連絡がなかったグループラインに、

久しぶりに花見をしませんか?

という連絡がきた。

久々に連絡をとらせるパワーが、桜にはある。

 

花見会場は混んでいたが、皆一様に楽しげだった。

 

桜が綺麗だ、嬉しい、という気持ちを多くの人々が抱くということ。

なんだか可愛いな、と思う。

 

 

こんな大きな声が出たのか

 

少し前に、自分が歌った音声を録音して聴いて、こんなに大きくはっきりとした声が出せるのかーと感心したことがあった。

 

平素、私は声が通らない。

話し声はボソボソしている。

何回も聞き返されるので、自信がなくなり余計ボソボソと話してしまう。

 

これは本題とはそんなに関係ない。

 

今日、なんだかイライラしていた。

無職で一人暮らし、イライラする要素は自宅にはない。 

 

買い物に出たスーパーで、些細なことが重なりイライラしてしまった。

例えば、私が商品を見てる最中に大きな咳払いをして私を押すように進んできた人とか(私の前にあった商品を見たかったらしい)

そんなことが重なっただけだ。

 

そのイライラのエネルギーを持ち帰ったまま、自宅の玄関のドアを開けた。

開けた瞬間に、物凄く大きな怒声が自分の口から出た。

 

それはスーパーで出会った人々への怒りではない。

さすがにその程度のイライラでは叫ばない。

だが、イライラのエネルギーが呼び水となり、私の腹の底にあった感情が溢れ出た。

 

先日まで働いていた会社への怒りと、

数日前に納得いかないことをされた、就活関連で関わっていた人への怒りだ。

 

その都度、友人や親に愚痴を聞いてもらったり、自分でも独り言でボソボソと吐いて、発散できていたつもりだった。

 

違ったようだ。

 

 

私は、ただ普通にやりたかっただけだ!

ずっと、ただ普通に、穏便に物事を運ばせたかった!!

だからいつでもできるだけ穏やかに冷静に話した!

やるべきことは黙って全部やってきた!

ぶっ壊すような、迷惑をかけるような真似はしなかった!

それなのに!!どうしてあの人たちは!!

あの人たちはあんな調子で振る舞うんだ!

私の誠実を踏みにじって平然と!

それをどうして許されると思っているんだ!

どうして私のことを最初から舐めてかかるんだ!!

何も見ようともせずに!!

許さない!!絶対に許さない!!

 

一通り叫んで、肩から力が抜けた。

なぜか生理がきた。

 

自分の中に怒りがあることはわかっているつもりだった。

こまめに発散してきたとはいえ、今後もこの怒りを持ったまま生きていくのだろうとは思っていた。

だが、こんな風に自分の予期せぬタイミングで、発露してしまうほどのものだったことに驚いた。

自分がこんなに大きな怒声が出ることにも驚いた。

 

当事者たちに向けて言える日は来ないだろう。

そもそも言えないし、言わないと決めていたから、私は今日まで溜めてしまったのだ。

 

これは、他ならぬ自分のための怒声だった。

私が、私のために叫んだのだ。

 

私はずっと踏みにじられて、軽んじられていた。

わかっていた。

そして諦めていた。

そういう役回りなのだと。

最近だけのことじゃなかったから余計。

学校に通っていた十代のころから、そんな扱いだった。

うっすら積もり続けたものが、どんどんと私の気持ちを圧死させていった。

 

怒りはパワーが要る。

そんなパワーはもうとっくに無かった。

 

違う。

私はずっと嫌だった。

 

ただ、自分も周囲も普通に穏やかに過ごせるようにと、常に考えて動いてきた。

それを平然と無かったことにされ続けた。

もう許せなかった。

 

怒声を自分で聞きながら、自分が癒されていくのも感じていた。

癒しとは遠いような、激しく大きな声だったのに。

私はまだ、こんなに大きな声で怒ることができる。

その事実に安堵したのかもしれない。

 

 

ぽんぽこ

 

平成狸合戦ぽんぽこを観ていた。

後半に、タヌキの住む森へテレビのレポーター達がやってくる場面がある。

(タヌキたちが人間に仕掛けた大がかりな化かしを、あれは自分たちがやったものだとテレビ局へ手紙を出したためレポーター達は来た。)

レポーターは、まろやかな口調でタヌキへ呼び掛けた。

 

タヌキさーんいませんかー?

またあの凄いやつ見せてくださいよー。

見せてくれないと視聴者の皆さん信じてくれませんよー。

あなたたちの方からあれは自分の仕業だって言ったのに無責任じゃないですかー?

 

うろ覚えだが、だいたいこんなセリフだった。

その口調や内容が、ここ数年私が他人にされた振る舞いに似ていて、急に話が真に迫り、苦しく泣けてきた。

 

私はタヌキだったのか。

 

そういう内容の映画ではない(と思う)。

だが、このレポーターのくだりを皮切りに、終盤のシーンは、タヌキたちが自分のことのように思えて仕方なかった。

 

人間に化ける技術のないタヌキが死を選び、踊りながら船に乗っていく。

力を出しきったものの、人間には敵わなかったと死んでいくタヌキ。

人間に化け人間として生きることを選んだタヌキの疲弊。

 

ただ、愛した場所を守りたかっただけなのに。

やり方は間違っていた。

それでももしかしたら、という希望をかけて。

 

 

タヌキたちが命がけでやった化かしを、人間たちは半笑いで、娯楽として消費した。

 

そんなことが、私にもあった。

 

人間にとっては、そこに命がかかっていたなんて、知るよしもない。

 

終盤に、長らく山を不在にしていたタヌキが戻ってくるシーンがある。

不在にしていたたった三年で、山がすっかり変わり果てたことに、タヌキが寝そべって泣いた。

私もそこで、一緒になって声を震わせながら泣いた。

 

何にもならなかった。

大きな力がなぎ倒し変えていくことを止めるには、あまりに小さな力。

あれほどやっても、犠牲が出ても。

人間の視界に、タヌキたちは入ってすらいない。

 

タヌキたちは最後の力を振り絞り、彼らが愛していた山の風景を再現する。

あくまで、気分転換だという軽やかで明るい調子で。

 

それが何にもならなくても。

人間を倒すための化かしでなく、

彼らのための、彼らが見たいものを。

でもそれは幻で、当たり前だがすぐ消えてしまう。

 

彼らはそれまでの暮らしと、愛した場所と決別する。

だが彼らに悲愴感はない。

どうにか生き延びて、適応できなければ死んでいく。

その残酷でシンプルなサイクルを彼らは受け入れた。

 

 

何の涙かもわからない。

ただ泣けて仕方なかった。

私も山へ帰って踊りたい。

ニラのことで悩める時間

 

晴れて仕事を失った。

円満退職を目指したが、結局円満だったのかはわからない。

許せない人間もいるし、わだかまりの残った人もいる。

 

だが、とにかく終わった。

次の仕事は決まっていない。

でも、とりあえず終わったのだ。

 

謎の体調不良が止んで、会社に行かなくなってまだ数日なのに、急に元気になった。

 

やることもないので、漫然と過ごす。

食事だけが1日のうちで少しは規則正しく組んだスケジュールとなる。

 

食べ終わった瞬間に次の食事はどうしようか考えている。

それくらいしか今は考えることがない。

 

今日の夕飯は水菜のパスタだった。

水菜は余ったので他の余り野菜とともに鍋にし、明日から2~3食かけて食べよう。

そう思った矢先、冷蔵庫にニラがあったことを思い出す。

 

ニラは私にとってスター野菜なので、できれば単品で主菜にしたい。

ニラ玉や炒め物で。

どのタイミングに挟もう?

 

真剣に悩む。

とりあえずまだ鮮度は大丈夫そうなので、明日は見送り鍋だけ食べようか。

 

こんなことが悩みのトップトレンドになっていることが、嬉しい。

 

 

次の仕事をどうするか等考えるべきことはあるが、今はこれでいいと思う。

 

 

数年前も私は職を失っている。

その時も思ったが、仕事を辞めたところで、ただ仕事が無くなるだけなのだ。

 

仕事にアイデンティティーを見出だしていたり、

人生を見出だしていたりする人にとっては、「ただ」じゃないかもしれない。

 

でも私はそうじゃないので、「なんだこんなもんか」と拍子抜けしたし、今もしている。

 

仕事を辞めたいです、と話すと会社の人たちは一大事のように止めにかかってきた。

 

今回は特に大変で、話し合いは難航した。

 

彼らのリアクションから、

お金を盗みました人を殴りました、みたいな告白でもしてしまったのかと錯覚するくらいに、

重大でネガティブで取り返しのつかないことをしようとしているんだろうか?

と思った。

 

しかし、そんなことはない。

 

ずっと会社で生きてきた彼らにとっては、そこから外れることは、死ぬことに限りなく近づくことだったのかもしれない。

 

それはそれで、彼らの考え方だ。

 

私は私の方針で生きていい。

もう脅かされて、いちいち不安がらなくていい。

 

数年前無職の時は、本当に疲れていて、私にはもう野垂れ死にしかないんだなと思っていた。

だが幸運なことに、野垂れ死ななかった。

 

ここ3ヶ月くらいも精神的に参っていて、もうダメだと感じていた。

どこへももう行けないし、生きてなんていけない。

 

そんなことはない!

 

一つの呪いなのかなと思う。

 

ここでダメなら同じことの繰り返しだよ

もうその年齢でそんな甘え考えでどうするの

やめないなら昇格も考えてあげるよ

 

全部本当に言われた。

クソだぜ!と今ならわかる。

それでも、それにしがみつけない私の方が社会人としておかしいのだろうか。

そんなことも思って震えた。

 

もういい。

もういいんだ。

 

君のためを思って言ってるんだ、というような言葉。

それが完全な嘘だとは思わない。

でも、その善意(のような形をした何か)をふいにすることに罪悪感を抱くのはやめだ。

 

私は私の人生を生きる。

 

まずは明日の食事を考えることから。

私を縛っていたしょうもない沢山の悩みよ。

今解きましょう。

 

ニラをどこに挟もうか?

 

愚痴のような

 

何かをやりたいと思うことは、前向きな欲求であり、行動に繋がる。

何者かになりたいとよく若い時分は思っていた。

いつの間にかその気持ちは薄れた。

何者かになんてならなくていい。

ただ日々を楽しく生きていきたい。

 

それも難しいと知っている。

 

気付けば、友人も減り、家族ともそう親密に過ごさなくなった。

一人だな、と思う。

本当に孤独で切羽詰まっている人からすると、このレベルで一人だとか言うなと思われそうな程度ではある。

しかし、このままだと、私はいずれ本当に一人になるだろう。

 

なんだか、色んなことが、もうどうすればいいのかよくわからない。

 

そう思う端から、おかしな話だとも感じる。

まだ絶望するには早いぞ、と。

なのに、行き止まりの壁の前に居る気がしている。

 

好きな漫画やテレビ番組を見ている時は、そういう沈んだ気持ちから切り離される。

いつの間にか、そういうものが、逃避の手段になっていく。

どれだけ逃避の手段に時間を使えるか。

新しい何かを好きになって一番に思うのは、また逃避の手段ができて良かったということだ。

以前はそうじゃなかったはずだし、感性の貧しさのようなものを感じる。

 

自分が一人である原因について考えていた時、私は人をよく見下していることに気付いた。

この人はこういう人というカテゴリに放り込んでいる。

どう振る舞えば常識的なのかばかり気にして、人当たりよくしようとはしても、相手のことは考えていない。

矢印は内向きだ。

嫌われたらどうしよう、と思ってるわけではない。そんなことはどうでもいい。好きじゃないんだから。

嫌われて不当な扱いをされたら不便だし嫌だなと思っている。

 

どうしよう。

これに気付いた時、ゾッとした。

でももう今更、前向きな気持ちで人に接するのは無理だ。

好きな友人にするような態度や気持ちで、全員に接すれば恐らく良いのだろうけど、そんなことできない。

でも多分皆もそうはしてないだろう。

だが、私のように見下しているわけでもないんじゃないか。

 

わからない。人のことがわからない。

わからないから、常識的な行動に添ってるかどうかばかりが気になる。

職場に居る時は、常に薄氷を踏むようだ。

 

私がどうしたいか、ということがどんどん死んでいく。

強いて言えば寝ていたい。

人と接したくない。

外に出たくない。

どうせ上手くいかない。

 

意識的か無意識かわからないが、自分の機嫌を他人に取らせることを当然としている人に時々出くわす。

大概、私より立場や力関係が上だ。

そんな人のことなんて視界にすらいれたくない。

そう思っているのに、私は機嫌を取ることを止められない。

たまに、機嫌が良いときに、良いリターンがある。

それを真に受けて、少しだけ喜び、この人にやっと受け入れてもらえたんじゃないかと思う。

でもそれは気まぐれに撫でた猫みたいなもので、本当にその場かぎりのものだ。

その人からすると、私の行動など何も心にとまってはいない。

ただ逆に、目障りな行動をすれば、それは害悪でノイズだから、叩く対象となる。

 

できるだけ関わらないで、逃げる。

それしかないとわかっている。

逃げられない関係だとしても、自分の精神をその人に摩耗されるような方法は取らないこと。

機嫌を取るな。

やっても何にもならない。

 

わかっているのに、なんで気付けばやっているのか。

人当たりよく、ってなんなんだろう。

こんな人がこのまま生きてきて、これからもこの調子で生きていくのに、なんで私側がこの人に合わせ削られないといけないのか。

なんでこの人は許されているのか。

 

それが許せない。

 

私はもうとっくに大人だ。

なのに、いつまでこんな気持ちでフラフラと心もとなく居るのだろう。

 

こんな人には絶対になりたくないという人は沢山いるが、こんな人みたいになりたいと思った人は社会に出てから一人もいない。

凄いと思う人はいても、そんな風にはとてもなれないから、なりたいと思わない。

私はそこまでやれない。 

 

 

せめて人当たりよく、と必死にやっても、誰も私のことなど見ていない。

こんなにやったのにな、というのが正直なところだ。

人当たりよくやってきたはずが、私は一人だ。

 

不機嫌をばらまく人に、不当な扱いを受ける頻度が増えた。

理不尽だな、と思うが、私は近いうちにこの場を去る予定なので黙っている。

でも、気持ちは磨り減る。 

周囲の人も気付いているだろうが、何も言わない。

それもそうだ、この人たちはこれからもここに居ないとならない。

きっとずっとこうして、見て見ぬフリでやり過ごしてきたのだろう。

理解はできるのに、どうしてそれで平気なの、とどこかで思う。

 

 

そんなのは、間違っている。

そう誰かに言ってもらいたい。

できれば、同じ場所で働いている人たちに。

あなたは、頑張っていた、と。

 

だけど、皆それぞれの仕事とポジションを回すのに必死だ。

私が褒めてもらえるほどの働きをしたことは皆無だ。

 

不機嫌をばらまく人は、ごく稀に私を褒めたりする。

他の人は誰も言わない褒め言葉を、その人だけが口にする。

最初のうちは、砂漠の水のように感じたが、もう心はなびかない。

それでいつもの振る舞いが帳消しになるとでも?

 

砂漠の水だ!と喜ばなくなっただけ、成長かもしれない。

 

私は人間関係をジェンガのようなものと捉え、どこで崩してしまうかを恐れるばかりだ。

それをやめるべきなんだろう。

あなたのことが好きだから、優しくしたい。

あなたのことは苦手だけど、困ってるなら手伝うよ。

それで十分なはずだ。

 

 

数日前、身体に見たことのない色のできものができた。

重い病の前兆かと怖くなった。

それと同時に、行き止まりの壁の前でうずくまってる毎日なのに、まだ死ぬのは惜しいと思っていることに気付いた。

できものはあっという間に治ったので、コンディションの問題だったようだ。

 

では、何をしよう。

日々はまだ続く。