昔の職場の上司は、よくゴミ箱を蹴る人だった。
電話をしながら、恐らく他に優先すべき仕事があるのに電話口の相手の話が終わらない時など。
口調も顔も明るい調子を保っているのに、ゴミ箱を蹴る。
大きいゴミ箱だったので、倒れはしない。
バスバスという音が鳴るだけ。
それを私は横で聞いていた。
ああ、またイライラしているのか。
この人が電話を切った後、どうやって機嫌を窺おう。
無視をすればいいけれど、話さなければいけない事があったら嫌だな。
ゴミ箱が蹴られて鳴る音を聞くたびにうんざりした。
うんざりしたし、怖かった。
その人とは結局、あまり仲良くはなれなかった。できなかった。
こんなことくらい、許してあげないと。
何度かそう思ったが、それでも嫌なものは嫌だった。
ゴミ箱が蹴られるたびに私が感じる嫌悪感と恐怖心を、この人はケアしてはくれない。
というか、私がそんな風に思ってるなんて、気付いてもないだろう。
今、日常的に関わらなければならない目上の人で似たようなことをする人がいる。
その人は壁を拳で叩く。
イライラしている度合いが大きいほど、強い力で叩く。
ドンドンと鳴るたび、やはりうんざりする。
その人が不機嫌な調子をそのまま私に向けることは極めて少ないから、昔の上司(不機嫌そのままを向けてくる人だった)よりはマシなはずだ。
だが、そういう問題でもない。
壁を殴る音を聞いて、反射的に・生理的に恐怖を覚える。
不快に思う。
どうしてそんなことするの?と思う。
こんなことをいちいち気にしてしまう自分が繊細すぎるのか?
そう思ってもいた。
今日、なんとなくDVについて検索し情報を読んでいたら、物に当たるのもDVに該当する場合もあるという記載を見た。
目から鱗だった。
私のこの恐怖心は、感じてしかるべきものであると肯定された気分だった。
いや、たとえDVに当たらなかったとしても、自分が怖いと感じることを自ら否定なんてしなくていいけれど。
ただ、第三者の目線の情報においてもそうであるということが、今の私にとっては安心材料だった。
友人と食事にでかけ、なんとなくこの壁を殴る人の話をした。
「えっやば!それは辛いね!だって怖いじゃん!」
即答でそう言ってくれた。
そうか、この恐怖心は自分が気にしすぎて発生したものでなく、一般的に発生するごく自然な心の動きか。
こうやって他人の目を通さないと、自分の恐怖心の判断もできないのか?と思うと、それはまた不安になるが、
ひとまず認められたことで安堵した。
かといって、普通に日々は継続する。
どうすればいいんだろう。
シャットアウトするには大きな音だ。
これが美しい音楽なら良いのに。