豪華な花と言われたくないセリフ
推しの舞台を観に行った。
これで三回目だ。
長年のファンや、もっと足繁く通っているファンからしたらぬるすぎる応援の仕方だろうが、自分にしては熱心な方だと思う。
印象的だったのが、ロビーにあった花。
プロの舞台を観に行って初めて、舞台でも花を送るという慣習を知った。
関係者からのものもあるが、ほとんどが出演者のファンからのものだ。
推しへの花もあった。
前回・前々回と明らかに花の豪華さと数がグレードアップしていた。
ご本人が好きだと言っていた色をイメージしたものや、結婚式を彷彿とさせるようなものもあった。
一つ一つ、とても凝っていて見る分には楽しく美しかった。
はっきりと、推しの知名度も愛され方も急速に変化していることが、形として見えた。
花は、詳しくない私にも、安くないことがわかるほどのものばかりだった。
しかも一つ一つに、送り手から推しへの思い入れが見てとれる。
これ、真正面から受け止められるかって才能じゃない?
そんなことを思った。
後に、推しはSNSで花が嬉しかったという旨の発言をしていたので、多分才能があると思う。
愛を受け止める才能だ。
人気が左右する職業である以上、演技の才能と同じく大切なもののように思う。
色々な才能が噛み合わないと、続けることができない仕事なのかもしれない。
無責任な立場からそんなことを勝手に思った。
そして肝心の舞台だが、面白かった。
しかし私には合わなかった。
面白いと合わないが共存することもあるんだな、と発見だった。
作中で、私の倫理観にそぐわない部分が多々あった。
書き手の、言ってしまえば無神経ともとれる感性がそのまま出てしまっている箇所が散見された。
古い、と思った。
この物語は現代の人間が作り、上演するには古い。
仮に、古くて当然の世界観の設定(江戸時代とか)であったとしても、
それを明らかに古いものとして描かないと、現代を生きる観客としては受け入れることができない。
この古さを書き手が古いと理解していなかった。
当然の正しさとして描いていた。
それが苦しいと感じた。
例えば、家族は愛し合って当然・独身の男女は恋愛をして当然・一人は寂しい存在・そこからはみ出た者はギャグとしていい、みたいなこと。
なぜ面白かったと感じたかというと、世界観の設定や話の構成が良かったからだ。
所々の演出や緩急も良く、細々したギャグやテンポのよさは楽しかった。
勿論演者も良かったし、セットがとても凝っていた。
ただ、それでも合わないものを受け入れることはできない。
中盤あたりで、これは私には合わない物語だなと思っていたときに、推しが、私の倫理観からはずれたセリフを言った。
あー見たくなかった!!!
そう思ったことに驚いた。
あくまでも、演技上の必要なセリフにすぎない。
それでも、ちょっとへこんだ。
これが、例えば悪役が口にする、「人間なんて皆殺しにしてやるぜ!」とかなら全然いいのだ。
悪いとされている役どころの、悪いセリフだから。
推しのキャラも言ったセリフも、そうではなかった。
ごくありふれた、何気ない楽しげな会話の一つとしてのセリフだった。
例え演技であっても、そんなセリフを言って欲しくなかった。
この心理が一体なんなのか、自分でもまだよくわからない。
そんなセリフを推しの体を通して言わせないでくれないか。
だが、今後こういったことは推しが役者さんである以上絶対に起こり続けることだろう。
私にとって良いものが、他の大勢のお客さんにとって良いものとは限らない。
現に、この私には合わなかった舞台だが、周囲のお客さんの八割位は感動して泣いていた。
どういうこと!?
と思ったが、どうもこうもない。
私には合わなかった、それだけだ。