君に出会った人生を、私が肯定し続ける
最近好きになった推しは若手の役者さんで、その舞台が先日あったので観に行った。
その日から色々と調子がおかしくなってしまったことを友人に話したら、一度文章にしてみたらいいと言われた。
ので、文章にしようと思う。
レポとかではなく、自分本位の所感や自分語りです。まとまりは特にない。
私には今まで複数のジャンルで、実在する推しが何人か居た。
だが、のめり込むほどのことは無かった。
推しが出しているCDをある程度集めたら満足したり、ライブを遠目で観ているだけで良かった。
一番はまったのは、某スポーツ選手だったが、それも国内の試合に時々観戦に行き、あとはテレビの前で応援するだけで楽しかった。
私は推しに対していつでも傍観者だった。
それで良いと思っていた。
本人の視界に入る必要も感じない。
私の人生に推しは必要だが、推しの人生には一切私という存在を一秒たりとも登場させたくない。
傲慢かもしれないが、推しに少しでも影響を与えたくないと思っていた。
某スポーツ選手のファンアート、というか単なる似顔絵だが、そういうものを沢山描いた。
それでも当人に直接応援しています!とか、そういう言葉と共にイラストを送ったことは一度もなかった。
私と、ファン仲間でたまに見せ合うだけで消費された。
今にして思うと、それは失礼なことだった気がする。
推しは実在し、毎日生きている人間だ。
私はそれをコンテンツのように思っていた。
一方的に眺めているだけの存在で、それがお互いにとって良いと思っていた。
だが、微力でも、推しを思って丁寧に描いたイラストは、もしかしたら推しにもプラスの作用をもたらしたかもしれない。
私は自分の声の届かなさを過信している気がする。
どうせ何をしたところで、と。
だが、マイナスな声はきっと積もりつもれば確実に状況を悪くさせるだろう。
その逆が起きないとどうして思ってしまうのか。
応援を舐めてはいけない。
そう最近は思う。
さて、好きになった推しの話だ。
しばらく実在する特定の推しがいなかったが、彗星のごとく現れ私の毎日を輝かしいものにしてくれた。
定期的に何かしらの発信をしてくれるので、それを日常的に見るだけで、パッと華やいだ気持ちになる。
掲載される雑誌の発売日は、朝からルンルン気分だ。
そして出演舞台のチケットが販売されてると知り、取った。
当日が近くなるほど、楽しみで叫びだしそうになった。
でも、ふと不安にもなった。
推しは、実在の人間だ。
今は、ただ元気な活動の様子を見ることだけで満足している。
だが、かなり近い距離(前の方の席が取れた)で、その輝きを浴びた場合私は正気でいられるのか?
言ってしまえば、迷惑をかけるような応援の仕方をするファンになってしまうのではないかと思った。
だが、楽しみの方が大分勝っていたので、結局浮かれた気持ちのまま当日を迎えた。
開演。
推しは早々に現れた。
当たり前だが、いつも写真で見る姿だった。
とにかく美しい。
照明効果だけでなく、少し全体的に光っているように見えた。
上演中は、推しを中心に見つめつつも、作品自体を鑑賞することに集中していた。
面白い作品だった。
プロの生の舞台を見たのはほとんど初めてだった。
目の前で、役者さんたちが出す声の震えまで客席に伝わる。
テレビ画面を取っ払ったドラマのような、そんな気がした。画面一枚隔てないぶん、そこには人間模様がより生々しくそのまま現れる。
ここでは何も隠せない。
ごまかせるものが何もない。
なんて怖い場所だ!と思った。
推しはそこまで達者な演技というわけではなかった。
それでも、なんだかとても良かった。
この、何も隠せない場所で、なんだかとても良かったのだ。
終演。
カーテンコール後、キャストが客席の通路を通る演出があった。
私はトイレが心配で、通路側の席を取っていた。
キャストが通っていく。
推しが通っていく。
あまりに目の前を通った。
そんなことある!?と信じられず、記憶は曖昧だが確かに通った。
やや放心したまま帰路についた。
強烈だった。
上演中の美しい姿。
熱演。
優しい声。
激しい声。
綺麗な動作。
めまぐるしく変わる表情。
作品をしっかり鑑賞したつもりだったが、頭に残っていたのは推しの姿ばかりだった。
この人のことをこれからも沢山観たい。
できれば近くで。
舞台があるならできるだけ沢山観たい。
演技はどんどん成長するだろう。
その様子をつぶさに見たい。
目の前を通り過ぎた時、推しは一瞬ではあったが、確かに至近距離に居た。
その事を思い出すと、途方もなく淋しい気持ちになった。
一番近くにいたはずの瞬間が、一番推しを遠く感じた。
私とこの人の人生が一点も交わることは無いというのが、はっきりとわかった瞬間だったからだ。
私はあくまで、客席で拍手を送ることしかできない存在。
そう思った時、私はもともとそれを望んでいたのではなかったのか?と我に返った。
推しの人生に、一秒も登場しない、背景とか木とか壁とかそんな存在がいい。
それが私だったでしょう?
自分の中の欲望の芽のようなものを感じた。
翌日はなんだか疲れてしまい寝入って過ごしたが、気を抜けば推しの姿が浮かんだ。
数日経ったが、やはり気を抜けば浮かぶ。
その度ニヤリと頬が動いているのが自分でわかる。
推しを思うと笑顔になる。それは舞台に行く前からだった。
ただ、明確に熱が違う。
推しへの「好き」に、何か不穏な感情が混ざっているような感覚がある。
どんどん人気が出てほしいと先日までは思っていた。
売れて、自分の夢を叶えてほしい。
かつ健康に暮らしてほしい。
本人が望んでいるうちは、色々な場所で色々な姿を見せて、それを応援させてほしい。
そういう気持ちだった。
正直なところ、恐らく、生の本人の破壊力に私の理性のネジが一部派手に壊れた。
拍手を送るだけの自分では、嫌かもしれない。
永遠に交わらない場所に居るのは、つまらないかもしれない。
これはやばくないか?
私には何かを好きになるときの信条として、
「絶対に不幸な方向に走らない」がある。
例えば、
一時はまっていたソシャゲは、家計を圧迫させるような課金は決しないこと、など。
私はそれを愛したことを絶対に後悔したくないのだ。
いつでも、好きになる対象は素晴らしいものであった。
その素晴らしいものを受けて、私が不幸になるなんてことは、起きてはいけない。
愛していた時間・お金、無駄だったと思う瞬間がきてしまうことが一番悲しい。
だってあんなに輝いていたんだから。
その時の私を生かしたオアシスであったことに違いないのだから。
だから、今一度冷静になりたい。
私は推しと出会えたことを心から嬉しく思っている。
ぜひ公私ともに幸多き人生を歩んで欲しい。
そして私自身も、推しと出会えたことでより楽しい人生を素直に送りたい。
なので、一旦立ち止まりたい。
でも、クールダウンさせようとしている間も、推しの新しい舞台のチケットは発売されるのだ。
迷う。
迷っている。
某スポーツ選手の似顔絵は、私の携帯フォルダと、引き出しの奥に眠ったまま。
本人の目に映ることはこの先無い。
今回の観劇にあたり、私は推しの似顔絵をポストカードに描いた。
いつも元気をありがとう、とか当たり障りの無い言葉を添えた。
手紙やプレゼントを受付けている場所に、ささっと置いた。
あなたを私は応援しています!!!
紙を通じてだが、直接伝えたことは、私にとってプラスの進歩だったと思う。
その素直な気持ちのまま、推しを応援し続けたい。
私は推しと幸せになりたい。
誰も不幸にならない形で。