まだ寝てていいよ

思いついたことをテキトーに

多面体のあなた

 

交友関係が狭いし、この数週間大半の時間を一人で過ごしていた。

ので、ここ数日久しぶりに家族・友人と共に過ごし、嬉しい反面一人で好きなように暮らすことに慣れすぎた自分にも気づいた。

 

人は色々な側面を持っている。

たとえ好きな人でも、親しい人でも、自分にとって全てが好ましい側面ばかりではない。

その事をすっかり忘れていた。

 

一人の部屋に戻り、お茶を飲んで自分の布団に入る。

なんとなく、自分を取り戻せた気になる。

 

多面体の全てを、見せ合わなくていい。

どんなに親しくても、全てを理解しあうことは不可能だ。

全部見せて、全部受け止めて欲しい。そんなことはできない。

 

 

その逆もある。

もうこの人とはわかりあえない、嫌いだ苦手だと思っていた人のある一面が、とても魅力的な場合。

違う銀河の住人だと思っていたあなたに、私の言葉が通じた瞬間。

 

100%の敵はそうそういない。

それが厄介なこともある。どうせなら憎みきらせてくれよと思う。

でもだからこそ、その隙間をぬって時折わかり合える。

 

100%の味方もいない。

そのことが時々心細くなる。

多面体のあなたの、私にとって好ましくない面。

それを見ないことも可能だが、見てしまったらどうするべきか。

 

いつか、そういうものも全てひっくるめて、愛しているよと言えたらいいと思う。

 

人間関係に完成はない。

私にも完成はない。

合わないと切り捨てがちな性分を、少しずつ変えていけたらいい。

 

私も多面体だ。

ルービックキューブのように、カラフルであればいいなと思う。

長風呂マイルール

 

頻繁に長風呂する。

 

風呂は基本的にはズボラな自分からすると、面倒な行為だ。

体を洗わなければ清潔、ひいては健康を保てないなんて、人間もっと進化頑張れよと思う。

 

しかし、長風呂は良い。

矛盾だが、良い。

 

ここ数年で長風呂の仕方を自分なりに身に付けた。

※医学的な根拠はないので、間違っている可能性大

 

まず入浴前に水分をとっておく。

これは必須だ。

水かお湯かお茶をマグカップ2杯前後飲むのが良い。

これを怠ると、入浴中に水分が抜けすぎて頭痛に繋がる。

 

風呂を沸かしてる間は、洗濯物を干すか米をとぐなど、簡単な家事を済ませると、湯上がりの気分が良い。

または、単語勉強(長時間かけずに済むやつ)やストレッチをやると良い。

ストレッチは激しいものはダメだ。

できれば、5分は猶予を残し、沸くまでの5分で体をリラックス状態に整える。

 

風呂を沸かす間の10~20分は、このように簡単かつなんとなく有効に時間を使った気になる行為をするのが良い。

 

さて、入浴。

まず、冬場は裸になることが辛い。そして温かい室内から急に寒い思いをするのは、体にも負担がかかる。

服は風呂場の間際で下着までを手早く脱ぐ。

素早く風呂場に滑り込む。

風呂場で、下着は脱ぐ。

洗い場の床に脱ぎ捨てておき、上がる時に回収しよう。

体を洗いながら、汚れた下着は下洗いすることもできる。

 

体を洗うときは、湯船から洗面器などでお湯を汲んで体にかける。

シャワーは使わない。

心臓から遠い場所からお湯をかけよう。

 

頭以外の全身を綺麗に洗う。

 

いよいよ、入浴。

この入浴のタイミングで入浴剤を投入する。

私はほぼ毎回入浴剤を入れる。

何種類か試したが、なんやかんやでバブが一番だ。

森の香りシリーズが好きだ。

湯上がりまで香りが続き、布団に入るときも良い香りがして気持ち良い。

 

入浴中は、暇なので本を読む。

本は、文芸書ならソフトカバーの単行本が良い。水に強い。

内容は好みだろうが、私はエッセイを読む。途中で中断しやすく、夢中になりすぎないものが良い。

文庫本はダメだ。一回でふやける。湯船に落としたら最後だ。

 

コミックなら、大判かB6サイズが良い。

新書判は文庫本同様ふやけやすい。

 

気合いを入れて長風呂をしたい日は、2冊。

ほどほどに長風呂したい日は、1冊。

それ以上読むのは長風呂が過ぎる。

 

本を読みながら、好きな動画やラジオをスマホで流す。

風呂場内にスマホは持ち込まない。

風呂場のすぐ外に置いて、BGM感覚で流す。

スマホを持ち込んでしまうと、SNSやネットをやってしまう。

長風呂のリラックスとそれらはあまり相性が良くない。

 

長風呂は適度に現実から分断されていないといけない。

 

入浴時間は30分~1時間が目安だ。

だが、それは入りすぎらしい。

本当は15分程度が医学的にも美容的にも良いらしい。(ふわっとした情報)

でも、それくらいは入りたいので入っている。

 

風呂場には時計がないので、だいたいこれくらいの入浴時間と決めたら、ちょうどそれくらいの長さの動画を再生するとダラダラしないで済む。

 

尚、入浴中に飲むヨーグルトやコーヒー牛乳を飲むと幸福感がアップする。

 

 

風呂から上がる前に髪と顔を洗う。

これはシャワーで洗った方がサッパリする。

シャワーを浴びつつ歯磨きもこなすとよりサッパリする。

 

風呂から上がったら速やかに服を着る。

温まった体を冷やさない。保温は大切だ。

そして、すかさず水分をとる。

入浴前同様、マグカップ2杯は飲もう。

 

以上が長風呂マイルールだ。

適度にアップデートを繰り返して、今後も快適な長風呂に勤しみたい。

 

その本はいつか誰かの

 

実家に一時的に帰省することにした。

頻繁に帰省しないので、実家に置いておきたい荷物はないか整理する。

 

児童書が10冊程出てきた。

全て同じ著者のものだ。

今の自宅に引っ越してきた時点で私は既にとっくに成人していた。

それでも、読むかもしれないと思って持ってきていた。

 

本は厄介だ。

テレビの録画も「まだ見るかもしれない」と思って消せない。

テレビはデータだから、まだいいが、紙の本はよほどじゃないと手放せない。

 

読みたい!という衝動は急なものだ。

その瞬間を逃せば、次がいつかもわからない。もう来ない場合もある。

私は、読みたい!という衝動に身を委ねる心地よさを、とても大切にしている。

その衝動のまま行う読書体験ほど、気持ち良い読書はないからだ。

 

この児童書は、何度も「読みたい!」の衝動があったもので、その都度読んできた。

だが、気付く。

もう長らく読んでいない。

新刊は手付かずでビニールにくるまったままだった。

 

あんなに夢中で読んだのに。

もう、私にはこの著者の作品が必要だった時代は通りすぎたのではないだろうか。

 

感性が合わなくなった本や、初見で合わなかった本は売るようにしている。

小銭が欲しいのもあるが、捨てるよりは、誰か必要な人の手元に届く可能性があるからだ。

私には不要でも、この本を必要とする誰かが、どこかにいるかもしれない。

 

でも、この児童書を売るなんてできない。

あまりにも何度も読んだ。

何度も読んで、私の感性の礎になった一つだ。

 

もう私には、必要ない。

それでも、手放すことができない。

 

子どもを生む予定も家庭を持つ予定もない。

だが、もしかしたら、いつか、私の身近な子どもが、この本を読んでくれるかもしれない。

 

可能性の低い話だ。

古本屋に売った方がまだいいだろう。

それでも、愛着というのは厄介なものだ。

 

紙の本は重いし、場所をとる。

でも、手放さないかぎり、必ず存在し続ける。

たとえ内容を忘れても、また読み返すことができる。

本は無くならないから。

 

その本を愛したその時の自分まで、ちゃんと残ってくれる。

 

布団を床に敷いて寝てはならない

 

晦日、自宅に友人が来て鍋を食べて1泊していった。

その際布団を床に敷いた。

普段私はパイプベッドにマットレス+布団で寝ている。

 

床に直接布団だけ敷いた。

友人たちと川の字で寝転びながら、マットレスを敷いたらベッドより気持ち良いのではないかとふと思った。

 

友人たちが帰っていき、客用の布団を片付けた。

ベッドからマットレスを下ろす。

マットレスの上に布団を敷く。

寝る。

天国!!!!

 

床+マットレス+布団=最高の寝心地

こんな簡単なことにどうして今まで気付かなかったんだ!

 

それから数日、気持ち良い安眠ライフが続いた。

 

が、気付けば家事が滞った。

普段から私はズボラな方で、家事はサボりがちだ。

輪をかけて、だらしなくなった。

 

布団を上げないからだ。

常に、ワンルームのど真ん中に布団がある。

 

ご飯も無理やり出したテーブルで、簡単なものを食べるだけ。

 

食事と睡眠以外の活動が、スペース的にまともにできない。

 

冬の寒さも手伝って、

仕事から帰宅→ご飯(インスタントや弁当など簡単なもの)を食べる→即、布団へgo

というサイクルになってしまった。

 

布団が気持ちよすぎて、休日は布団から出られない。

出たとしても、布団が部屋を占拠して、まともな活動ができない。

 

これは、まずい。

 

散らかり淀み始めた部屋の空気。

寝過ぎと栄養不足でだるい体。

ただ、布団を床に敷いただけなのに。

 

気持ち良い眠りを手放すのは、惜しい。

それでも、これを手放さないかぎり、生活に支障をきたす。

いずれ健康にも影響が出る。

 

ベッドに戻す。

生活がまた戻り始めた。

たったこれだけのことで、自分は暮らしを簡単に乱してしまうというのは、発見だった。

 

パイプベッドは他のベッドにくらべて寿命が短い。

数年内に使えなくなるだろう。

その時自分の傾向からして、出費をケチって「床に布団敷けばいいかー」という発想に走りそうだ。

それはダメだ。

絶対にベッドを買う。

 

肝に銘じる。

 

忘れていいよ

 

新しい仕事に就いたばかりのとき、覚えることが多い上にとても細かい内容ばかりだった。

記憶力が良い方じゃない自分は、ひたすらメモをとり、何回も確認したが、なかなか身に付かず狼狽えていた。

 

その愚痴を友人に話した。

友人は、

「でもいつかは、それを全部忘れていい日がくる。私はそのために頑張って覚えてる。」

と言った。

 

衝撃を受けた。

そんな考え方ある!?

と思った。

 

忘れていいくらいに自分で動けるようになる、みたいなニュアンスではなかった。

 

忘れる解放感のために覚える、という意味だった。

 

当時の私は、今立っている場所にあるものを叩き込むことに必死だった。

そんな角度で物事を見る余裕はなかった。

なかったし、これだけやっても忘れてしまうなんて、そんなの…!

 

だが、友人は明らかに前向きな気持ちで「忘れていい」という言葉を使った。

 

いっぱいいっぱいの自分の頭に、風穴が空けられたようだった。

 

その仕事を、数日前に辞めた。

辞める間際のしんどい時期に、友人の言葉を思い出した。

 

そうか、もうすぐ全部忘れていいんだ。

 

解放感と安心感があった。

 

積み上げていったものが、無かったことになるのは苦しいことだと思っていた。

でも、「もう手放していいんですよ」と自分に対して許すことは、そう悪いものではない。

 

これからどんな生活になるかはわからないが、この言葉は折に触れて私を助けてくれると思う。

 

目に見えないけど信じている

 

「目に見えないけど信じていること」が人それぞれにある。

 

代表格は神様だろうか。

私は神様をあまり信じていない。

(初詣にはちゃっかり行くけど)

 

何を信じているか考えると、縁を信じていると気付く。

人同士の縁だ。

 

縁のある人とは、別れてしまってもきっとまた会える。

逆に縁のない人とは、どんなに狭い場所でも会えない。

そう当然のように信じている。

 

地元は田舎で、人が集う場所はとても限られている。

それでも、学校を卒業してから同級生に偶然バッタリ遭遇…ということは数えるほどしかない。

近年になってからはほぼ無い。

 

なるほど、縁が薄いんだなーと思う。

 

先日まで勤めていた職場の近所に住んでいるが、職場の人に会ったことはない。

そして辞めた今、きっともう会わないんだろうと思う。

縁がないから。

 

 

数年前、地元から遠く離れた都会で暮らしていた。

人口も多い街だった。

ある日、学生時代の先輩と遭遇した。

お互い、なぜこんな所に!?と驚いた。

 

縁だ、と思った。

先輩とはそれから何回か遊んだ。

まさかこんな風に会えるなんてねーと言い合った。

その後、私はその街を離れることになり、先輩ともまた会わなくなった。

それでも、また会えるだろうと信じている。

 

また別の時。

以前勤めていた職場の先輩とは、退職後も旅行をしたりと仲良くしていた。

が、日々の忙しさにかまけ、なんとなく連絡を取らなくなった。

このまま疎遠になるだろうと思われた。

 

連絡を取らなくなり一年以上経ったある日、夢にその先輩が出てきた。

あまり良くない内容の夢で、妙にリアルだった。

 

先輩の身に何かあったりしてないだろうか。

なんだか心配になり、突然ではあったが、連絡してみた。

先輩は特に変わったこともなかったようだ。

突然の連絡に驚かれたが、なんとなく気を遣って先輩からは連絡しないようにしていたらしく、嬉しいと言ってもらえた。

 

それをきっかけにまた連絡をとるようになった。

また会うことになりそうだ。

 

 

 

人と別れなければならない状況でも、私はそんなに悲しくない。

私とあなたには縁がある。

また会える。

だから、大丈夫。

 

少しスピリチュアルめいた話に聞こえるかもしれないが、感覚的な話だ。

 

あなたのことは好きだから、また会えたらいいと思う。

こう強く思って別れる。

縁は祈りが繋いでるだけなのかもしれない。

 

縁があると信じていても、このまま会えない場合もあるだろう。

それも良いような気がする。

きっとまた会えるさ!と思っているうちは、

私とその人の関係は絶えていない。

たとえどちらかが亡くなっても、大切に思っていたことは何も変わらない。

また会えたら良かったのになーと思いながら死ぬことは、悲しいことではないと思う。

 

パスタの記録

 

パスタを頻繁に食べるようになったのはここ半年くらいのことだ。

18年暮らした実家では、そんなに食卓に上がらないメニューだった。

料理は母が作っていたが、母はニンニク全般が苦手な人で、自分の苦手なものを調理しない人だった。

なので、我が家のパスタはニンニクが入らなかった。

ナポリタンかミートソースか母オリジナルの和風パスタ(めんつゆ味)、三択だった。

 

それらも美味しいは美味しかったが、特別好んでいたわけではなかった。

他にも美味しいメニューはあったので。

 

親元を離れてからも、なんとなく実家のメニューに影響され、パスタをそれほど作らなかったし、作ってもニンニク抜きだった。

 

それがここ半年で急変した。

 

きっかけはカレー沢薫さんのエッセイにハマったこと。

その中でカレー沢さんは「365日のうち360日はペペロソチーノを食べている」というようなことを書いていた(どのエッセイでのことかは忘れてしまった)

 

ペペロンチーノはほとんど食べたことがなかった。

そんなに良いのだろうか。

 

ひとまず麺と、麺にかけるだけのソースを最寄りのスーパーで購入した。

 

一口食べて、なるほど!!!と思った。

美味しい。

ちょうどいい美味しさだった。

毎日はさすがに飽きるかもしれないが、頻繁に食べたくなるタイプの味。

 

 

それからしばらく、市販ソースのペペロンチーノを食べていた。

 

だが、一番の問題は、私が辛いものを基本的に苦手とすることだった。

ペペロンチーノは当然、唐辛子を使っている。

(一応説明すると、ペペロンチーノはオリーブオイル・ニンニク・唐辛子で構成されたパスタだ)

 

味は美味しいけど、一口食べるごとに辛さで咳き込むため、大分死にそうな様相で食事に励まなければならなかった。

 

そんな私が、イチオシなのはセブンイレブンのペペロンチーノソースだ。

辛さはほとんどない。

味もマイルドで美味しい。

 

ただ麺にかけるだけでもいいのだが、

私は麺を茹でる際に冷凍保存していた舞茸・エリンギなどを一緒に鍋に入れ解凍し、麺と一緒に食べるのが気に入っている。

冷凍エビがあれば尚良しだ。

 

しばらくそうして食べていたが、

ペペロンチーノでない、辛くない自分なりのパスタはできないものか?と思うようになった。

 

ひとまず、冷凍シーフード・キャベツ・ベーコンをオリーブオイルとニンニクで炒め、麺を投入してみた。

 

それなりだった。

何回か作ったうち、一回だけ奇跡のように美味しかった。

だが、麺の茹で加減や野菜・シーフードの水分にかなり左右されやすい。

 

キャベツの変わりに白菜を入れたこともあったが、やはり水分調整が難しかった。

味付けも難しい。

塩コショウだけでは物足りないので、めんつゆや醤油を入れてみたが、調整を誤ると和の風味が強くなりすぎる。

 

面倒だな。

手間や材料費に、得られる満足度が比例してないと思った。

調理をやめ、市販ソースで食べる日々を再開。

 

ある日、スーパーで半額になった水菜を見かけた。

水菜を調理したことが無いことに気付く。

ニンニク同様、実家の食卓には登場したことがなかった。

 

もしかして、これパスタに合うんじゃ…?

 

スマホで、水菜 パスタで検索する。

沢山のレシピが出てきた。

購入し、帰宅。

 

オリーブオイルにニンニク、ベーコンと水菜を炒め、塩コショウ。

そこに茹でた麺を投入し軽く混ぜた後、醤油を少量回しかけ炒めて完成。

 

食べる。

これだー!!!!!

美味しかった。

何より、手間と材料費が満足度と釣り合っていた。

 

ベーコンをツナに替えても美味しかった。

 

私の中で、スター野菜というのがあり、

ニラと舞茸がそれなのだが、水菜は恐らくスターではない。

単品では輝かない。

 

だが、何だろうこの良さ。

肉と一緒に鍋にしても美味しかった。

油や味の主張が強いものと一緒にすると、水菜はひときわ輝く。

 

まだ君のことを私は深く知らない。

だから、これから一緒に探していこう。

 

長い付き合いになりそうだ。