まだ寝てていいよ

思いついたことをテキトーに

野菜を炒めて煮た匂い

 

職場からの帰路、ヘロヘロと歩いていたら、周辺から料理中の匂いがした。

野菜を炒めて煮ている匂いだ。

玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ。

カレールーを入れる前のカレーの匂い。

 

匂いを感知した瞬間、バッと昔の光景がよみがえった。

 

昔家族で住んでいた借家は、古く小さな青い家だった。

大家さんの広い庭の一角に建っていた。

私は毎日のように大家さんの広い庭で遊ばせてもらっていた。

夢中で鬼ごっこやらかくれんぼやらしているうちに、辺りは薄暗くなっていく。

 

夕方を知らせる音楽が、電柱に吊るされたメガホンから音割れしながら鳴る。

ふと家の前に立てば、台所の窓が明るい。

家の窓はすりガラスで、母のぼんやりとしたシルエットが動いている。

換気扇からなのか、野菜を炒めて煮た匂いがする。

今夜はカレーだ。

青い家の外壁はトタンで、少し汚れていた。

 

 

匂いを感知して、一瞬だったがこの光景が勝手に目の前で上映された。

匂いは記憶と直結しやすいらしい。

 

カレーライスそのものより、私はこの野菜を炒めて煮た段階の匂いが好きだ。

この香水が売ってたら欲しい。

 

今夜はカレーだという嬉しさがくっついてる匂いだからかもしれない。

遊び疲れて、ただいま!と帰れば、家族とカレーが待っている。

 

 

人類のムダ毛を愛する

 

推しが掲載された雑誌の写真を見ていたら、体毛が確認できないことに気付いた。

他の雑誌も見てみたが、わからない。

 

体毛が目立たない体質という可能性もあるが、他の役者さん達のページも見るに、ほとんどの人の体毛が確認できない。

これだけの成人男性が全員そういう体質とは考えにくい。

つまり、処理するのがスタンダードであるということだ。

 

驚くと同時に、

なんで処理してしまうんだ!!!

という嘆きを抱いた自分にも驚いた。

 

私は男性の体毛が好きだったのか…

 

これは思いがけない発見だった。

しかし考えてみると、女性の体毛も好ましく思っている。

つまり人類の体毛が好きだ。

 

確かに、バービー(人形)ちゃんのようにビシッとツルツルな脚でミニスカートなど履いていたら綺麗だな、とは思う。

そういう感性も私には確かにある。

 

しかし、それよりもちょっと剃り残しがあったり、うっすら生えている方が「良い……」と思う。

 

綺麗=良い、ではない。

 

別に脱毛が悪と言いたいわけではない。

ただ世間的に、脱毛を良しとしすぎなのではないか?と思わずにはいられない。

 

ツルツルな、毛穴さえ一切わからない腕や脚が良いなら、別に人間じゃなくていいじゃんと思う。

そもそも体毛が生えている状態が自然なのだし、よく「ムダ毛」と言われるが、ムダで生えている毛などないだろう。

体の保護で生えているはずだ。

 

生えている状態が自然なのに、どうして脱毛処理をしていないと「汚い」「身だしなみが整ってない」と思われがちなのか。

 

脱毛を良しとする派と同じくらい、体毛そのままを良しとする派を認めてはくれないだろうか。

 

脱毛良し派は、恐らく服を着ることと同じくらい当たり前の身だしなみとして脱毛をしているのだろう。

私も手足を露出する際は、脱毛処理をしてしまう。

やはり見映えが気になってしまうし、体毛があるだけで「なんだこの人」と思われてしまうなら損だからだ。

ただ、本当は生やしたい。

生えている方が格好いいと思う。

皆、生えていた方が格好いいと思う。

 

ならば貫けばいいのに、半端に迎合してる時点で私は何かに負けている。

まだまだだ。

 

だが、推しと推しの事務所には、脱毛処理をしているのであれば一刻も早く止めていただきたい。

私のために。

 

 

というか、皆そんなにツルツルに価値を見出だしているのだろうか。

いっせーのーで、で辞めてくれないだろうか。

私は人類のムダ毛が好きなんだ。

 

 

占いに向いてないということは言える

 

「あなたは人よりもエネルギーが余ってるので、少し忙しい位の仕事をしてないと消化不良になるわね。」

前職を辞めてしばらく無職をしていた頃、占いでそんなことを言われた。

前職は(自分の体感では)比較的忙しい環境で、調子を悪くし退職した。

忙しい仕事は向いていないと思っていた。

次に仕事をするなら、できるだけ体力的に優しく、定時で帰宅できる職業が良い。

そう思って就職活動をしていた最中だった。

 

私が希望する職種を聞いた占い師は、

「あんまり向いてないわね。」

ともう少しオブラートに包んだ言い方だったが、そう言った。

「じゃあ、どんな仕事が向いてますか?」

私が聞くと占い師は少し考え答えた。

「美容師がいいと思うわ。」

その一言で私はこの占い師を信じないことにした。

美容室と私の精神的距離感は、地球から冥王星くらいだ。

お洒落への関心度ランキング(全国民対象)を作ったら、下位にいく自信がある。

 

なので、言われたことはさっさと忘れてしまおうと思ったが、思いの外忘れることができない。

性格の問題だと思うが、私は占いに縛られやすい。

というか、他者の言葉に縛られやすい。

あなたってこういう人間ですよね、と言われることが少ないからだろうか。

自分で自分のことがわからず、自信がないからだろうか。

 

あなたはこういう人間ですよ、と損得勘定のない間柄の、全くの他人(占い師)が言う。

それは案外鋭く心に刺さる。

 

 

その後私は、占い師に向いてないと言われた希望の職種に就職した。

向き不向きは、よくわからないままだ。

 

昔読んだ本の受け売りだが、大概のことは「どちらかといえば向いてる・向いてない」程度のラインを行ったり来たりするだけだというのが、私の考え方だ。

たとえ美容師になり天職というほど向いていたとしても、向いていないかも!と思う瞬間は必ずあるんじゃないだろうか。

 

学生時代のアルバイトから、私はどこで何の仕事をしていても、めちゃくちゃ仕事ができるわけではなく、むしろ並みより色々できないが、居ないよりは居た方が良いような、そんな感じだった。

そしてどこも、辞める間際まで引き止められようとも、私が居なくなって潰れる職場なんて一つもなかった。

私一人辞めたところで、本当に全然どうにでもなる。

 

じゃあ次は何の仕事をしよう?

わからない。

どこで何をしても、そんなに変わらない私は、何をすればいいんだろう。

 

美容師が天職なのはデタラメだと思うが、冒頭に言われた「消化不良になる」は、あながち間違ってないと最近感じる。

 

体力はない方だ。

立っている時は常に「座りたい」と思っている。

座っている時は「横になりたい」と思っている。

だから、「人よりエネルギーが余ってる」という言葉も全然信じていなかった。

 

転職先の職場環境は、体力的に優しかった。

仕事外の自分の時間も十分に確保できる。

仕事から帰って、途中スーパーで食材を買い、まだ夕暮れのうっすら明るい部屋で味噌汁やおかずを作る。

洗濯機を回し、夕方のテレビ番組を流しながら夕飯を食べる。

寝るまでは好きに過ごせて、長風呂しながら読書もできる。

 

なんて、穏やかな暮らし。

家事をする余力のある生活を送れるだなんて!と最初のころは感動していた。

私はやっと人間としてスタートラインに立ったのだと思った。

 

それなのに。

この暮らしが続けばいいと思えなくなってきていた。

 

なんだかつまらない。

死んだように眠る時間が積み重なった。

 

それにも飽きた頃、推し(過去記事参照)にはまった。

しかし、推しを追う活動にも限度がある。

毎日のように情報の発信があるわけではない。

過去に配信された動画などを繰り返し観ては、なんだか頭がモヤモヤとしていく。

 

推しがどうということじゃない、推しはいつでも輝いている。

問題は私だ。

 

 

「エネルギーの消化不良」

 

 

じゃあ、また心身を狂わせるほどの仕事をしたいのか?

それは嫌だ。

どこへ行こう。何をしよう。

 

エネルギーを消化不良にせず、忙しさに殺されることのない仕事なんてあるのか。

 

 

推しの新しい仕事が決まった。

嬉しい!という気持ちと同時に、何かヒヤリとした感情が湧いた。

なんだろうと探ると、それは嫉妬だった。

驚いた。

役者さんである推しと、自分の仕事は何も共通項がない。

仕事を愛し向上心をもち努力をしている推しに、何の努力もしていない私が。

そもそも立っている土俵が全然違うし、嫉妬というのはもっと身近な人間に対して湧くはずの感情だ。

 

なんだろう、これは良くない気がする。

自分の感情の整理はつかないが、それだけは思った。

 

「夢を叶えたい。」

というようなことを時折推しは口にした。

私はそれを応援している。

新しい仕事が決まり、思っていた以上のスピードで、推しは夢を叶えていこうとしていることに気付いた。

当たり前だ。夢は叶えるものだ。早い方がいい。

叶えるための努力も、きっと見えないところでめちゃくちゃしていることだろう。

 

 

そんな瞬間が、自分の人生には一秒でもあったのか。

 

 

私は、変わりたいんだと思う。

どこへ行っても変われない私から、変わりたい。

 

走る

 

6~7月、腹に据えかねることがあり、精神的にまいっていると感じていた。

過去に何度かメンタルをやっているので、その兆候をびんびんに感じて、このままではまた自律神経が狂う!!と怯えた。

 

走りに出た。

もう何も考えたくなかったが、家でじっとしていると頭の中がノンストップでストレス要因のことを延々に考えてしまう。

なので、走りに出た。

 

私は匿名ラジオのファンなので、匿名ラジオを聴きながら走った。

匿名ラジオは一回がだいたい10分前後で、どれくらいの時間走ったかの目安にもなる。

 

走りに出るのは夜、それも22時前後が多かった。

人通りの少ない夜道を、ひたすら駆けた。

 

運動と縁の無い十代だった。

運動能力皆無。

部活はずっと文化部。

体育は基本的に心を無にして挑む。

 

高校を卒業し太ってきたため、二十歳前後はまれにジョギングやウォーキングをしていた。

 

それもパタリとやらなくなって久しかった。

しかし身体は、その時ぬるく覚えた呼吸法や足の動かし方を覚えていた。

走ると、身体が前へ前へと動く。

 

 

日常的にろくに運動していない身体では、すぐに息が上がった。

苦しくて何も考えられなくなる。

匿名ラジオの愉快な会話だけが耳元で再生され続ける。頭にまでは届かない。

 

そう長くは走れない。せいぜい20分だ。

帰宅すると、汗がひたすら流れる。

ヒートアップした身体を落ち着けるために整理運動をし、深呼吸。

身体は心地よい疲労感に包まれた。

 

この一時だけは、ネガティブなことから解き放たれる。

苦しかった、気持ちよかった。

それだけになる。

 

健康な身体に、健全な精神が宿るのはあながちデタラメではないのかもしれないとその時感じた。

連夜走っていたら、憂鬱に心を支配されることはなかった。

文字通り逃げきったと思う。

 

7月以降は、連日の猛暑で走りに出るのはデッドオアダイといった状況で、結局習慣にはならなかった。

だが、また憂鬱に押し潰されかけた時は走りに出ようと思う。

何度でも逃げ切ろうと思う。

 

 

秋だ

数日前、玄関のドアを開けた瞬間にキンモクセイの香りが飛び込んできた。

秋だ。

 

数週間、毎日が楽しみで寝つきが異常に悪かった。

だが身体は軽かった。

眠らなくても元気だと思った。

 

だが、秋だ。

秋の到来と共に私の身体は平時の状態を取り戻したらしい。

眠らないと身体はだるい。夜に眠気もちゃんとくる。

 

一つ前の記事で、推しへの気持ち・応援スタンスへの戸惑いを書き連ねた。

それもこの秋の到来とともに、穏やかなものになった。

今まで通り好きなことには変わらないが、本人に迷惑をかける可能性を感じるほどの熱烈な感情はない。

 

 

飲み物を、冷たいものから温かいものに変えた。

温かい飲み物は、飲むと胃に落ちてそこからじわりと身体を暖かくする。

 

夏は、漠然と焦る。

何かをしなければならないような、追い立てられる気持ちになる。

暑さと、晴ればかりな気候。

謎の無敵感みたいなものが湧いてきて、やたらに活動したりする。

 

夏を手に入れなければならない。

私だけの夏を。

今年こそ手に入れなければならない。

 

そして夏は終わる。

大抵何も手に入らないまま、夏は終わる。

 

秋は突然始まる。

夏の終わりを引き摺った私の時間が、キンモクセイの香りでぶった切られる。

 

ここからはもう、秋です。

 

秋は、どことなく孤独だ。

寂寥感というものなのか。

だが、それは嫌なものじゃない。

馴染みのある、私だけの孤独と自由がある。

何かに急き立てられることもない。

私だけの秋を、毎年ちゃんと手にしている気がする。

もうすぐ寒さに葉を散らす木が、静かに染まっていく。

夏場に見られる勢いはない。

淡々と日を浴び、そこにある。

 

さあ、眠ろう。

血湧き肉躍るばかりが、楽しいということではない。

君に出会った人生を、私が肯定し続ける

 

最近好きになった推しは若手の役者さんで、その舞台が先日あったので観に行った。

その日から色々と調子がおかしくなってしまったことを友人に話したら、一度文章にしてみたらいいと言われた。

ので、文章にしようと思う。

レポとかではなく、自分本位の所感や自分語りです。まとまりは特にない。

 

私には今まで複数のジャンルで、実在する推しが何人か居た。

だが、のめり込むほどのことは無かった。

推しが出しているCDをある程度集めたら満足したり、ライブを遠目で観ているだけで良かった。

一番はまったのは、某スポーツ選手だったが、それも国内の試合に時々観戦に行き、あとはテレビの前で応援するだけで楽しかった。

 

私は推しに対していつでも傍観者だった。

それで良いと思っていた。

本人の視界に入る必要も感じない。

私の人生に推しは必要だが、推しの人生には一切私という存在を一秒たりとも登場させたくない。

傲慢かもしれないが、推しに少しでも影響を与えたくないと思っていた。

 

某スポーツ選手のファンアート、というか単なる似顔絵だが、そういうものを沢山描いた。

それでも当人に直接応援しています!とか、そういう言葉と共にイラストを送ったことは一度もなかった。

私と、ファン仲間でたまに見せ合うだけで消費された。

 

今にして思うと、それは失礼なことだった気がする。

推しは実在し、毎日生きている人間だ。

私はそれをコンテンツのように思っていた。

一方的に眺めているだけの存在で、それがお互いにとって良いと思っていた。

 

だが、微力でも、推しを思って丁寧に描いたイラストは、もしかしたら推しにもプラスの作用をもたらしたかもしれない。

 

私は自分の声の届かなさを過信している気がする。

どうせ何をしたところで、と。

だが、マイナスな声はきっと積もりつもれば確実に状況を悪くさせるだろう。

その逆が起きないとどうして思ってしまうのか。

 

応援を舐めてはいけない。

そう最近は思う。

 

さて、好きになった推しの話だ。

しばらく実在する特定の推しがいなかったが、彗星のごとく現れ私の毎日を輝かしいものにしてくれた。

 

定期的に何かしらの発信をしてくれるので、それを日常的に見るだけで、パッと華やいだ気持ちになる。

掲載される雑誌の発売日は、朝からルンルン気分だ。

 

そして出演舞台のチケットが販売されてると知り、取った。

 

当日が近くなるほど、楽しみで叫びだしそうになった。

でも、ふと不安にもなった。

推しは、実在の人間だ。

今は、ただ元気な活動の様子を見ることだけで満足している。

だが、かなり近い距離(前の方の席が取れた)で、その輝きを浴びた場合私は正気でいられるのか?

 

言ってしまえば、迷惑をかけるような応援の仕方をするファンになってしまうのではないかと思った。

 

だが、楽しみの方が大分勝っていたので、結局浮かれた気持ちのまま当日を迎えた。

 

開演。

推しは早々に現れた。

当たり前だが、いつも写真で見る姿だった。

とにかく美しい。

照明効果だけでなく、少し全体的に光っているように見えた。

 

上演中は、推しを中心に見つめつつも、作品自体を鑑賞することに集中していた。

面白い作品だった。

プロの生の舞台を見たのはほとんど初めてだった。

目の前で、役者さんたちが出す声の震えまで客席に伝わる。

 

テレビ画面を取っ払ったドラマのような、そんな気がした。画面一枚隔てないぶん、そこには人間模様がより生々しくそのまま現れる。

ここでは何も隠せない。

ごまかせるものが何もない。

 

なんて怖い場所だ!と思った。

推しはそこまで達者な演技というわけではなかった。

それでも、なんだかとても良かった。

この、何も隠せない場所で、なんだかとても良かったのだ。

 

終演。

カーテンコール後、キャストが客席の通路を通る演出があった。

私はトイレが心配で、通路側の席を取っていた。

キャストが通っていく。

推しが通っていく。

 

あまりに目の前を通った。

そんなことある!?と信じられず、記憶は曖昧だが確かに通った。

 

やや放心したまま帰路についた。

 

強烈だった。

上演中の美しい姿。

熱演。

優しい声。

激しい声。

綺麗な動作。

めまぐるしく変わる表情。

 

作品をしっかり鑑賞したつもりだったが、頭に残っていたのは推しの姿ばかりだった。

 

この人のことをこれからも沢山観たい。

できれば近くで。

舞台があるならできるだけ沢山観たい。

演技はどんどん成長するだろう。

その様子をつぶさに見たい。

 

目の前を通り過ぎた時、推しは一瞬ではあったが、確かに至近距離に居た。

その事を思い出すと、途方もなく淋しい気持ちになった。

一番近くにいたはずの瞬間が、一番推しを遠く感じた。

私とこの人の人生が一点も交わることは無いというのが、はっきりとわかった瞬間だったからだ。

私はあくまで、客席で拍手を送ることしかできない存在。

 

そう思った時、私はもともとそれを望んでいたのではなかったのか?と我に返った。

推しの人生に、一秒も登場しない、背景とか木とか壁とかそんな存在がいい。

それが私だったでしょう?

 

自分の中の欲望の芽のようなものを感じた。

 

翌日はなんだか疲れてしまい寝入って過ごしたが、気を抜けば推しの姿が浮かんだ。

数日経ったが、やはり気を抜けば浮かぶ。

その度ニヤリと頬が動いているのが自分でわかる。

 

推しを思うと笑顔になる。それは舞台に行く前からだった。

 

ただ、明確に熱が違う。

推しへの「好き」に、何か不穏な感情が混ざっているような感覚がある。

 

どんどん人気が出てほしいと先日までは思っていた。

売れて、自分の夢を叶えてほしい。

かつ健康に暮らしてほしい。

本人が望んでいるうちは、色々な場所で色々な姿を見せて、それを応援させてほしい。

そういう気持ちだった。

 

正直なところ、恐らく、生の本人の破壊力に私の理性のネジが一部派手に壊れた。

拍手を送るだけの自分では、嫌かもしれない。

永遠に交わらない場所に居るのは、つまらないかもしれない。

 

これはやばくないか?

 

私には何かを好きになるときの信条として、

「絶対に不幸な方向に走らない」がある。

 

例えば、

一時はまっていたソシャゲは、家計を圧迫させるような課金は決しないこと、など。

私はそれを愛したことを絶対に後悔したくないのだ。

いつでも、好きになる対象は素晴らしいものであった。

その素晴らしいものを受けて、私が不幸になるなんてことは、起きてはいけない。

 

愛していた時間・お金、無駄だったと思う瞬間がきてしまうことが一番悲しい。

だってあんなに輝いていたんだから。

その時の私を生かしたオアシスであったことに違いないのだから。

 

だから、今一度冷静になりたい。

私は推しと出会えたことを心から嬉しく思っている。

ぜひ公私ともに幸多き人生を歩んで欲しい。

そして私自身も、推しと出会えたことでより楽しい人生を素直に送りたい。

 

なので、一旦立ち止まりたい。

 

でも、クールダウンさせようとしている間も、推しの新しい舞台のチケットは発売されるのだ。

 

迷う。

迷っている。

 

 

某スポーツ選手の似顔絵は、私の携帯フォルダと、引き出しの奥に眠ったまま。

本人の目に映ることはこの先無い。

 

今回の観劇にあたり、私は推しの似顔絵をポストカードに描いた。

いつも元気をありがとう、とか当たり障りの無い言葉を添えた。

手紙やプレゼントを受付けている場所に、ささっと置いた。

 

あなたを私は応援しています!!!

 

紙を通じてだが、直接伝えたことは、私にとってプラスの進歩だったと思う。

その素直な気持ちのまま、推しを応援し続けたい。

 

私は推しと幸せになりたい。

誰も不幸にならない形で。

 

サンタとトイレについて話そう

 

雑談が苦手だ。

家族や友人なら楽しいが、そうでない相手と話すのが難しい。

話すことに苦手意識があるため緊張してしまい、まざれないことが多い。

 

かといって、どうしても輪に入りたい!と思う話題が繰り広げられていることは少ない。

なので、実際そこまで困っているわけではないのだが、では雑談をするとしたら何を話したいか?ということを考えていた。

 

サンタをいつまで信じていたか。

 

これだ。

 

最初はこの質問、「推しに何か質問できるなら何を聞くか」を考えていた際に思いついたものだった。

推しに限らず、周囲の人間にぜひ尋ねてみたいと思った。

だが、その人が育った家庭事情によっては、聞かれたくない質問である可能性もある。

クリスマスについてどう思っているかなど探りを入れてから聞いた方が良いだろう。

探りを入れ、サンタの話題も大丈夫そうな人に聞いてみたい。

しかし、そんな探りを入れて判断するなどという高等技術を私は持たないので、これを雑談の話題として持ち出すことはこの先も無い。

 

ちなみに私の家にはサンタさんは五年生まで来ていた。

猫がほしい!猫がほしい!とクリスマス前に散々言いまくったので聡明なサンタさんは私の意を汲んでくれる!と思っていた。

クリスマスの朝、猫のぬいぐるみが置いてあった。

「生きている猫」とまでちゃんと言わなければならなかったらしい。

 

次の年のクリスマスから、プレゼントをねだる相手をサンタさんから親に変更した。

プレゼント内容も現金となった。

大人の階段をのぼってしまった瞬間だった。

 

余談だが、サンタさんの来るクリスマスと、サンタさんの来なくなったクリスマスでは楽しさが2000倍くらい違うが、その辺りを皆どう折り合いつけているのだろうか。

サンタが来なくても、アルコールや恋人の力などを借りて、サンタが来るクリスマスに匹敵する楽しさを会得してるのだろうか。

 

プレゼントなんてどうでもいいのだ。

サンタという謎の見知らぬおじさんが、なぜか私の欲しいものを把握し、家を間違えることなくちゃんとプレゼントを置いていくこと。

しかも家の外にでなく、鍵がかかってるはずの家の中に置いていく!

こんな不思議なことが、クリスマスの夜だけ毎年起きる。

たった一晩だけ、私の現実と物語の世界がつながる。

その浪漫たるや。

 

今でもクリスマスは好きだ。

当日が仕事でまるまる潰れても、一緒に過ごす相手がいなくても、ご馳走を食べなくても、クリスマスは良い。

 

でもあの頃のクリスマスはもう二度と私にはやってこない。

そう思うと、いっそ二十歳ギリギリまで信じていたかったと思う。

 

さて、雑談について。

 

サンタ以外の話題として、

「理想のトイレはなんですか?」

これを聞いてみたい。

 

理想でなくてもいいが、トイレの設備について思うところを聞いてみたい。

生きていれば、ほとんどの人が必ず利用する場所だ。

人は誰しもトイレについて何かしらの考えがあると思う。

私は胃腸が弱いので、人よりトイレの場数は踏んできた方だと思う。だから余計に気になるのかもしれない。

 

友人の結婚式へ向かう際、他の友人たちとトイレについてひたすら話していたことがあった。

こんなおめでたい日にトイレって、とも言ったが、それでも一つ話すとあれこれ思いつくのがトイレの話題なのだ。

 

私は近年主流の、自動で水が流れるトイレが苦手だ。

自分のタイミングがあるから…!!!

と毎回思う。

衛生面を考えての機能だと思うが、そのわりに、追加で流したいときはボタンを押さないと流れなかったりする。

私はあのボタンこそ汚いと思っている。

一番好きなのは、手をかざすと流れるタイプのトイレだ。

 

あと、荷物を置く場所。

フックが扉でなくサイドの壁についている方がなんとなく好きだ。

ショルダーバッグをかける際、扉のフックにかけると何かの拍子でバッグが揺れて鍵にぶつかって開くのでは…という要らぬ心配をしてしまうのもある。

フックだけでなく、荷物を置ける場所があるトイレは加点対象だ。

フックもなく荷物を置く場所もなく、やたら狭いトイレがたまにあるが、あれは一体どういうつもりなのだろう。

 

まだまだ語れる。 

私一人だけでもかなりある。

人と話せばどんどんエピソードが出るだろう。

 

雑談として盛り上がるかはわからないが、共感や発見がある話題だと思う。

 

 

明日からも雑談には上手くまざれないだろう。

しかし、この2つのトピックは懐にしのばせ、ここぞというときに出してみようと思う。

話題については今後も考えていきたい。

懐にしのばせるトピックが増えれば、雑談への不安も減るような気がする。