出会ってくれてありがとう
推しカプが出会った記念日が公式で明らかにされているのだが、
それ自体を知ったのがごく最近のことだった。
なので、当日の祭りの様子を見たのは今年が初めてだった。
そのなかで、沢山の人が「出会ってくれてありがとう」と書いていた。
普段暮らしていて、あまり聞かない言葉だと思った。
例えば、自分自身の出会いで、ありがたい相手の存在を意識して言うならば、
「あなたに出会えて良かった」がしっくりきそうな気がする。
実在の知人友人が最善の選択として結婚を選んだとして、かける言葉は「おめでとう」だろう。
素晴らしいカップルだと感じていたとしても、「出会ってくれてありがとう」とは言わない気がする。
その二人が出会うことで、自分自身が嬉しい思いをするという状況が発生しない限り、「出会ってくれてありがとう」とは言わないのだ。
推しカプや推しているグループなどに対して以外に使うシーンがほぼない言葉のように思った。
本当にないか?
さらに考える。
しいていえば両親だろうか。
出会ってくれてありがとう、生まれてこれたぜ。
でも、なんだかしっくりこない。
どちらかといえば、親から私に対して言うんじゃないか(図々しい発想)
日常でしっくりくるシーンを見つけたら、すかさず言ってみたい。
出会ってくれてありがとう。
世界を救うおばちゃん
数日前、音楽を聴きながら人通りの少ない裏道を歩いていた。
それなりの音量で聴いていたのと、歩行者以外が通ることの少ない道だったので、完全に油断していて、後ろから走ってきた自転車に気づかなかった。
その自転車に乗っていた人は、大きな罵声を口にしながら、かなりのスピードで私のギリギリ横を通り抜けた。
イヤホンを飛び越えて聴こえてきた、普段耳にしない怒声に驚いて飛び退いた。
通りすぎながら、しばらくまだ何か文句を叫んでいたが、あっという間に駆けていったので、詳細な内容はわからなかった。
ダラダラ歩くな、邪魔なんだよといったことは言っていたように思う。
本当にびっくりして、息が上がった。
通常なら、しばらくは落ち込むような出来事だが、案外すぐ立ち直った。
私の前を歩いていた、中年女性数人の集団が、同じように驚いた後、私を振り返ってくれたからだ。
「びっくりしたわねー!」
「なあにあれ。危ないわね~」
「野良犬かと思ったよ!」
「やっぱり裏通りは危ないのね」
わいわいと彼女たちは発散するように話した。
全員少し小柄で、同じような体格をしていて、寒い夜だったので、モコモコと着込んでいた。
なぜか、ちいかわのキャラクターたちのような印象を受けた。
私は、驚きましたねえ……とゴニョゴニョ返して、早々に一人離れたが、なんだか気持ちが助けられたのを感じた。
きっと、彼女たちにとっては何の意識もしていない行動だったのだろう。
それが、通りすがりの私を助けてくれた。
私も彼女たちのようになりたい、と一人で歩きながら思った。
それがお前の人生か
マッチングアプリを昨年は結構長い期間やっていた。
誰とも会ってはいない。
やめてしまったので、若干記憶が曖昧なところもある。
非ユーザーにわかりやすく言うと、転職サイトの人間バージョンみたいな使用感のアプリだ。
アプリの種類は複数あるものの、内容的には大体全部一緒だ(と私は思った)。
プロフィールを作る際に、予め質問項目があり、それを選択する欄がある。
例えば、結婚願望について、すぐしたい・いずれしたい・考えていない等。
その中で、子どもは欲しい・欲しくない・相手と相談したいというものがあった。
私は女で、男性と出会うタイプのアプリをしていたのだが、
男性がこの質問項目に「子どもは欲しい」と答えていることに若干の違和感があった。
そして、違う質問項目に、家事育児の分担について希望を選択する箇所があり、
子どもを欲しい言っている人が、家事育児は二人でシェアしたいという項目以外を選んでいることも多かった。
できれば参加したい、積極的に参加したいといった項目だったと思う。
参加ってなんだ?と思っていた。
あなたの家事であり、育児ではないのか。
大人が、家の中のことを自分のものだと思えない感覚がよくわからなかった。
そんな状態で、子どもを欲しいと言えるのも、正直なんだかよくわからない。
生むのは女性側で、体に負担がかかる命がけのことだ。
相手がいない段階で、それを堂々と書くことに対して抵抗はないのか。
まあ、とにかくそんな感じだったので、いちいちモヤモヤしてしまい、結局続かなかった。
先日、Eテレを観ていたら、代理母出産について演者が話し合う一幕があり、その中で「他人の体を使って自分の自由を追求するのか」といった議論があった。
私が感じていた違和感の正体だと感じ、しばらくぼんやりとしてしまった。
別件。
以前女性向けの風俗について軽く調べたことがあった。
単純に、男性と縁がないわりに、心身が健康で欲求はあるので、じゃあ風俗でいいんじゃないか?と安易に思ったのだ。
でも、調べていくうちに滅入った。
これは風俗全般に言えるが、値段に換算しちゃいけないものに値段がつけられて流通していると私は感じた。
ものすごくプライベートなものを、他者から供給してもらおうとしている。
いくら、ルールを守ってちゃんとお金を払ったとしても、自分の中の道徳に反することはできない。
これもまた、他人の体を使って自分の自由を追求することだった。
マッチングアプリもやめて、風俗利用について検討するのもやめたのには、考え方の転換があったからだ。
恋愛も性愛も楽しめなければ人生損なのではないかと、私は長年思っていた。
例えばアセクシャルであれば、元々そういう願望がないので、ない状態が自然なのだが、私の場合はあるのにできないという状態が続いている。
ならば、行動しなければならない。
そう自分に課していた。
だが、そこに私の幸せはない、ということに気付いた。
恋愛や性愛を獲得しようとしていたのは、自分の幸せの代替品を求めていただけだ。
恋愛感情があって、性欲もあって、恋愛や結婚に特に大きな壁はなさそうな人間でも、恋愛や性愛に自分の幸せがない場合もあるのではないか。
という考えに思い至った。
少なくとも、歯軋りしながらマッチングアプリを眺めている状態の自分は、幸せとは言えなかった。
私らしさなんてものは、ただ生きていれば、ここにあるものだと思うが、それでも、肩の力を抜いて優しい気持ちでいる状態から遠い自分を、自分らしく居られているとは、言うことができなかった。
街コンに行こうと思うんだけど、めちゃくちゃ行きたくないんだよね!と友人に話したら、
やりたくないならやらない方がいいよと言われた。
ものすごく当たり前の話なのに、恋愛をゲットするには多少の困難は乗り切らねばならないし…と思っていた。
やりたいことを見つけるというのが、とても難しいものだと思っていた。
しかし、むしろそれこそが勘違いだった。
私は、ただ家でのんびり過ごしてお茶を飲んだり、友達と美味しいご飯を食べたりするのが好きだ。
本や漫画を読み、音楽を聴いて散歩し、楽器を弾くのが好きだ。
それが私のやりたいことだった。
手元にないものの中に、自分の知らない凄まじい快楽があるんじゃないかと、私は本気で思っていたのだ。
他人の定義した華やかな物事に、飛び込めないでいてはダメなのではないかと。
それが自分にとっては空虚で無価値なものである可能性を疑わずに。
私は、他人の人生を生きようと頑張っていたのか。
そんなことしなくていいのに。
もっと、今まで生きてきた自分を信じよう。自分の手綱を自分で引こう。
そのようなことを思った昨年後半だった。
14000分
Spotifyが今年から(だと思う)一年に聴いた音楽の傾向を自分用の動画にしてまとめてくれるようになった。
この一年、自分は14,000分Spotifyで音楽を聴いていたらしい。
78%のユーザーより多いとのことだ。
パーセントで出されるとよくわからないが、10人いたら上位2位にはいるということでいいのだろうか。
14,000分を60で割ると233と出る。
233時間ということだろう。(私は数字に弱い)
すごく聴いたんだな、というのをまず思った。
233時間以上やったことが、この一年他にあるだろうか。
音楽を聴くのは、移動中がほとんどだ。
だからか、自分の趣味が音楽鑑賞だとはあまり思っていない。
音楽を聴くことは習慣だ。
音楽の好みに趣味は出るが、聴くという行為は習慣だと感じる。
何を使って聴いてるかというと、1500円くらいの有線イヤホンで聴いている。
今日ふと電車で隣り合った人の横顔を見たら、BOSEの無線イヤホンで音楽を聴いていた。
この人より私は音楽を聴いている可能性があるのに、1500円のイヤホンなのか。
安くても質のいいイヤホンを選んで聴いているとかでもない。
本当にその辺のコンビニで売ってるイヤホンを適当に買っている。
ある程度すべての楽器の音が聴こえれば、私にとってはそれで音楽ということになるので、音質は悪くてもいい。
しかし、羨ましいは羨ましい。
私が安い有線イヤホンしか買えないのは、イヤホンを確実に無くしたり壊したりするからだ。
自分なりのこだわりとかでは全くない。
無線イヤホンいいですよ、と勧めてくる知人に、えーいいなー!今度はそれにしよう!とポーズだけして見せる時、なんて自分は空虚な人間なんだろうと思う。
私が無線イヤホンを買う日はこない。
じゃあ、音質の良い有線イヤホンやヘッドホンを買えば?ということになるが、
まあそれはそれで欲しいのだけど、音質を求め出すと果てがない。
私が一番理想とする音楽鑑賞の環境は映画館だ。
コンサートのライブビューイングで映画館に行った時に、音楽が麻薬のようにきまるというのはこういうことかと思った。
あれを毎日聴けたら、と思う。
それはそれで頭がおかしくなりそうだ。
だから、1500円のイヤホンでシャカシャカ聴いてるくらいでいいのかもしれない。
むしろ、音質の良いツールは、たまにしか音楽を聴かない人にこそ有効だと言える気がする。
14,000分聴く人間は、どんなイヤホンでもどうせ聴くのだから。
悪人の愛犬
醜悪としか言いようのないクレーマーに、店員の立場で何度かでくわしたことがある。
小悪党程度のクレーマーは日常茶飯事なので、今となっては誰のことも覚えていないが、
時々やってくる悪党と呼んで差し支えない醜悪なクレーマーのことは何年経っても忘れていない。
この人のことを、誰かが愛していたりするんだろうか。
そういうことをよく思っていた。
クレーマーに対峙して精神をやられないための考え方と言われているものはいくつかある。
まず相手が大分年上の場合は、「この人は自分よりかなり早く死ぬのだから気にするな」という考え方。
よく言われている考え方だと思うが、私はこれが全然理解できない。
死ぬからなんなんだと思う。
クレームを言っている現在、即死するならいいが、そんないつくるかわからないクレーマーの死で私は救われない。
あとは、「その人が赤ちゃんだった頃を想像する」というもの。
これもよくわからない。
皆赤ちゃんだったんだと思えば少し気持ちが晴れるという話らしいが、全然ダメだ。
今は赤ちゃんじゃないからだ。
口の端に泡をつけながら店員に絡んでる奴らが、今すぐ赤ちゃんに戻るとかならいいが、過去どれほど可愛い赤ん坊であったとしても、現在は醜悪なクレーマーなのだ。
許さん。
では、どう考えればいいのだろう。
彼らがめちゃくちゃ酷い死に方をすることが確定しているとかなら、多少溜飲が下がるかもしれない。
でも、実際にそれを私が知ることはない。
この人のことを、誰かが愛していたりするんだろうか。
そう思ったあとは必ず、「いやそんなわけはない」と頭のなかで強く否定した。
きっと誰にも愛されてはいない。
家で、職場で、違う店で、この人は全員に対して醜悪なのだろう。全員になんだこの醜悪な人間はと思われているのだろう。
なんなんだその生き方は。
もう私はクレーマーに出会うような生活はしていないが、今もふいに彼らの醜悪さを突発的に思い出す。
今日、通勤途中の駅の階段をのぼりながら、彼らが死んで悲しむ人は恐らく一人もいないんだろうなと思った。
そう思った直後、なぜか大きな犬を散歩させているクレーマーの姿が頭のなかで再生された。
そんな光景を実際に見たわけではない。
だが、こういうワンシーンもありえるのかもしれない。
悪人でも、飼い犬には愛されているかもしれない。
犬は健気だからだ。
悪人であっても、犬には愛されているのかもしれない。
愛を向けられたことのない悪人は、唯一愛してくれる犬のことを、愛しているのかもしれない。
そう考えると、少し落ち着いた。
彼らのことは許さないが、彼らを愛する犬がいると仮定すると、少し気持ちが落ち着く。
犬に免じて見逃してやろうという気に少しなる。
見逃すというのは、彼らが即死することを願うのは今日のところはやめておくという意味で、醜悪な行いのことは絶対に許さないけれど。
今後許せない悪人に遭遇し、自分の怒りがいつまでも収まらないときは、一度考えてみることにする。
彼らを愛する犬のことを。
転々
ずいぶん間が空いてしまった。
色々と起きてはいたので、書こうとしては途中までで止めてしまっていた。
中身がないわりに冗長な文章になってばかりいた。
ここ最近の変化を簡潔に書くと、
できなさに苦しんでいた仕事は辞めた。
辞めたというか、辞めさせられた感じだった。
不本意な形で行われたので、どうにも整理がつかずにいた。
その後、期間限定の仕事を見つけ一旦その仕事をしている。
去ることが前提で、私も職場もお互い気楽な調子で日々過ごしている。
嫌なことがないわけではないが、格段に気持ちは楽だ。
だが、この暮らしを続けていたらまずいということも感じている。
将来を全く見据えていない雇用だ。
元々雇用条件として何年も続けることはできないが、経済的にも、所謂キャリアプランなどにおいても、何年も続けることは難しい。
じゃあ何がやりたいのか?
ということをよく聞かれる。
それがわからない。ずっとわからない。
こうなる前から、ずっとだ。
でも、みんなそんなにやりたいことをやっているのだろうかとよく思う。
私は、自活と貯金ができる収入を得られて、なるべく自分の時間を確保できて、生命身体を脅かされない快適な環境で仕事ができたらいいと思う。
いくら仕事内容が面白くてやりたいものであっても、その辺りが守られていないと結局続けられない。
内容よりもまずそこだ。
では、それらが守られていると仮定した上で、やりたいこととは?
それが真っ白だ。もう何年もそんな調子だ。
でも意外と仕事が本気で切れるってこともないんだなと思う。
新卒のころは、この会社を辞めたら何もかもお仕舞いなんじゃないかとか、そういうことを考えていた気がする。
意外とどうにかなっている。とりあえず今は。
なっているうちは、あまり自分に負荷をかけるような考え方をするのは、しなくていいのかもしれない。
呑気をしてる間に追い込まれるのだろうか。
結局まとまりのない文章になってしまった。
前の会社を去る時に、諸々の状況に理不尽さを感じていた。
冷静さを欠いていると自覚していた。
見えなくなっていることもあるだろう。
だからきっと時間が経てば、一体会社が何を考えて自分に対してこういう判断を下したのか、上司たちは何を考え何が見えていたのか、わかる日がくるかもしれないと思った。
少し時間が経過した今思うのは、会社は本当に何も考えていなかったのではないかということだ。
それに気付いた時結構びっくりした。
そんな調子で経営ってやれるんだ…という驚きと、そんな調子で役員は高給が取れるのかという驚きがあった。
社員に恨まれることを恐れなければ、人の人生や仕事に対するプライドをテキトーに扱っても平然としていられる精神さえあれば、何も考えずに会社を経営してもいいみたいだ。
いや、いいわけないんだけど。
案外潰れたりはしないみたいだ。
振り返ってみれば形は違えども、今までの職場も大体嘘だろ!?みたいなことはあったし、潰れた職場はおそらくない。
そんなもんだ、という話だ。
明らかに道理に反してはいる。そんなことは間違いだ。
それでも、そんなもんだよという顔で、あるある話として社会にたくさん転がっている。
では踏まれた我々にできることはなんなのか。
適度に忘れて、適度に許さずいることなのかもしれない。
普段はすっかり忘れて懐に忍ばせておき、いざというときに過去の学びとして取り出す。
あとは、これから出会うであろう類似の悪意に対して、ノーリアクションで素通りすること。
今浮かぶのはそれくらいだ。
これこそ、いずれわかる日がくるのかもしれない。わかる日がくるといいと思う。
数ヶ月前の私を救うために。
近況の心境
また仕事辞めるかもな…という考えが頭をよぎり続けている。
よぎる頻度が高まっている。高まった結果辞める!に移行するのはわかっている。
多分辞めるんだろう。
またか。またなのか。何回辞めれば気が済むんだろう。
今回の退職(仮)は、純粋に仕事ができなくて辞める。
純粋に仕事の能力が足りなくて辞めたことは今までなかった。
だから、どうにも認められずにグダグダしている。
あまり向き不向きというものを考えたことがなかったが、向いていないことは本当にできるようにならないというのは、一つの発見だった。
悔しいというより、情けない気分だ。
もう社会人歴も長くなってきたのに、私はまともに続いた仕事がない。
職種さえ変えなければ、だんだん力はつくだろうが、わりと職種も変えまくってるので、特に何にも秀でていない、いい年の大人になってしまった。
考えるのやめたい、結婚だ! 婚活しよう!
みたいなことを思うが、別に結婚しても仕事のことは解決しない。
『湯神くんには友達がいない』という漫画で「後回しにした問題は形を変えてやってくる何度でも!」というようなセリフがある。よく思い出す。
もし、本当に結婚できて仕事のことを有耶無耶にしたとしても、多分いずれ必ず向き合わなければならないだろう。
なら今向き合った方がいい。
でも向き合いたくない! なぜなら辛いからだ!!!
一年前の転職時、自分に合う仕事を考えて今の仕事に就いた。
今までの経験をふまえ、きっとこれならば!と思った。私は自分を信じたのだ。
慌ててテキトーに下した決断ではなかった。
だからこそ、今の状況を受け入れられずにいる。
あれほどちゃんと判断した(と思っていた)ことが間違いであったこと。
それがどうしても認められない。
でも、認めないかぎり苦しいままだ。立場も悪くなるだろう。
頑張ってもできないことはあるんだと、当たり前のことなのかもしれないが、思った。
努力が報われるわけではないことくらい知っている。
しかし、それは例えば、どれほど外回りに力をいれても売上がいまいち伸びない、みたいなことかと思っていた。
外回りに力を入れることで、能力自体は向上する、と思っていた。
だが、能力自体も向上しないということがあるんだと知った。
私は歌が比較的得意で、曲を聴きまくって、自分の声の出し方を工夫すれば誰でも歌えると昔から思っている。
でも多分、苦手な人からするとなんでそれができるのかわからないのだと思う。
私は運動が苦手だから、速く走れない。練習の仕方やフォームを工夫して、ある程度速くなっても、平均より遅いことには変わりがない。リレーの選手にはなれない。
今の仕事も、続けているうちにできるようになったことは多い。だが、求められる水準に到達できなかった。私はリレーの選手にならなければいけなかった。なれないのに。
できない、役に立たないということが、心を蝕むことも思い出す。
暗い気分で油っこいものをやたら食べてしまう。
もう少ししたら、三回目のワクチンを接種する予定だ。
二回目のとき副反応に苦しんだので、恐らくまた苦しむだろう。
なぜかそのことを楽しみに感じている。
具合が悪いと、何も考えなくて済むからだ。
仕事のことなんて浮かばない。将来のことも、お金のことも。
そういうものから一時的に解放されたい。不健全な考えのような気がする。
だが、必ず回復することを望んでもいる。副反応は最適と言える。
回復することを望んでいるうちは、まだ大丈夫かなとひとまず思う。