まだ寝てていいよ

思いついたことをテキトーに

愚痴のような

 

何かをやりたいと思うことは、前向きな欲求であり、行動に繋がる。

何者かになりたいとよく若い時分は思っていた。

いつの間にかその気持ちは薄れた。

何者かになんてならなくていい。

ただ日々を楽しく生きていきたい。

 

それも難しいと知っている。

 

気付けば、友人も減り、家族ともそう親密に過ごさなくなった。

一人だな、と思う。

本当に孤独で切羽詰まっている人からすると、このレベルで一人だとか言うなと思われそうな程度ではある。

しかし、このままだと、私はいずれ本当に一人になるだろう。

 

なんだか、色んなことが、もうどうすればいいのかよくわからない。

 

そう思う端から、おかしな話だとも感じる。

まだ絶望するには早いぞ、と。

なのに、行き止まりの壁の前に居る気がしている。

 

好きな漫画やテレビ番組を見ている時は、そういう沈んだ気持ちから切り離される。

いつの間にか、そういうものが、逃避の手段になっていく。

どれだけ逃避の手段に時間を使えるか。

新しい何かを好きになって一番に思うのは、また逃避の手段ができて良かったということだ。

以前はそうじゃなかったはずだし、感性の貧しさのようなものを感じる。

 

自分が一人である原因について考えていた時、私は人をよく見下していることに気付いた。

この人はこういう人というカテゴリに放り込んでいる。

どう振る舞えば常識的なのかばかり気にして、人当たりよくしようとはしても、相手のことは考えていない。

矢印は内向きだ。

嫌われたらどうしよう、と思ってるわけではない。そんなことはどうでもいい。好きじゃないんだから。

嫌われて不当な扱いをされたら不便だし嫌だなと思っている。

 

どうしよう。

これに気付いた時、ゾッとした。

でももう今更、前向きな気持ちで人に接するのは無理だ。

好きな友人にするような態度や気持ちで、全員に接すれば恐らく良いのだろうけど、そんなことできない。

でも多分皆もそうはしてないだろう。

だが、私のように見下しているわけでもないんじゃないか。

 

わからない。人のことがわからない。

わからないから、常識的な行動に添ってるかどうかばかりが気になる。

職場に居る時は、常に薄氷を踏むようだ。

 

私がどうしたいか、ということがどんどん死んでいく。

強いて言えば寝ていたい。

人と接したくない。

外に出たくない。

どうせ上手くいかない。

 

意識的か無意識かわからないが、自分の機嫌を他人に取らせることを当然としている人に時々出くわす。

大概、私より立場や力関係が上だ。

そんな人のことなんて視界にすらいれたくない。

そう思っているのに、私は機嫌を取ることを止められない。

たまに、機嫌が良いときに、良いリターンがある。

それを真に受けて、少しだけ喜び、この人にやっと受け入れてもらえたんじゃないかと思う。

でもそれは気まぐれに撫でた猫みたいなもので、本当にその場かぎりのものだ。

その人からすると、私の行動など何も心にとまってはいない。

ただ逆に、目障りな行動をすれば、それは害悪でノイズだから、叩く対象となる。

 

できるだけ関わらないで、逃げる。

それしかないとわかっている。

逃げられない関係だとしても、自分の精神をその人に摩耗されるような方法は取らないこと。

機嫌を取るな。

やっても何にもならない。

 

わかっているのに、なんで気付けばやっているのか。

人当たりよく、ってなんなんだろう。

こんな人がこのまま生きてきて、これからもこの調子で生きていくのに、なんで私側がこの人に合わせ削られないといけないのか。

なんでこの人は許されているのか。

 

それが許せない。

 

私はもうとっくに大人だ。

なのに、いつまでこんな気持ちでフラフラと心もとなく居るのだろう。

 

こんな人には絶対になりたくないという人は沢山いるが、こんな人みたいになりたいと思った人は社会に出てから一人もいない。

凄いと思う人はいても、そんな風にはとてもなれないから、なりたいと思わない。

私はそこまでやれない。 

 

 

せめて人当たりよく、と必死にやっても、誰も私のことなど見ていない。

こんなにやったのにな、というのが正直なところだ。

人当たりよくやってきたはずが、私は一人だ。

 

不機嫌をばらまく人に、不当な扱いを受ける頻度が増えた。

理不尽だな、と思うが、私は近いうちにこの場を去る予定なので黙っている。

でも、気持ちは磨り減る。 

周囲の人も気付いているだろうが、何も言わない。

それもそうだ、この人たちはこれからもここに居ないとならない。

きっとずっとこうして、見て見ぬフリでやり過ごしてきたのだろう。

理解はできるのに、どうしてそれで平気なの、とどこかで思う。

 

 

そんなのは、間違っている。

そう誰かに言ってもらいたい。

できれば、同じ場所で働いている人たちに。

あなたは、頑張っていた、と。

 

だけど、皆それぞれの仕事とポジションを回すのに必死だ。

私が褒めてもらえるほどの働きをしたことは皆無だ。

 

不機嫌をばらまく人は、ごく稀に私を褒めたりする。

他の人は誰も言わない褒め言葉を、その人だけが口にする。

最初のうちは、砂漠の水のように感じたが、もう心はなびかない。

それでいつもの振る舞いが帳消しになるとでも?

 

砂漠の水だ!と喜ばなくなっただけ、成長かもしれない。

 

私は人間関係をジェンガのようなものと捉え、どこで崩してしまうかを恐れるばかりだ。

それをやめるべきなんだろう。

あなたのことが好きだから、優しくしたい。

あなたのことは苦手だけど、困ってるなら手伝うよ。

それで十分なはずだ。

 

 

数日前、身体に見たことのない色のできものができた。

重い病の前兆かと怖くなった。

それと同時に、行き止まりの壁の前でうずくまってる毎日なのに、まだ死ぬのは惜しいと思っていることに気付いた。

できものはあっという間に治ったので、コンディションの問題だったようだ。

 

では、何をしよう。

日々はまだ続く。

 

 

部屋ラブ

 

住んでる部屋の更新時期がそろそろだと気付いた。

引っ越そうかどうしようか迷っている。

 

一人暮らしを始めたのは、社会人になってからだ。

今まで異動や退職で、同じ場所に一年半以上居たことはなかった。

 

今の部屋はもうすぐ二年。

初めて部屋の更新時期を迎える。

 

何にでも何かと文句をつけがちな私は、どの部屋でも文句を言っていたが、それ以上に部屋を好いていた。

この部屋も、未だに何かと文句をぶつぶつと言っている。

 

エアコンが動かないから寒い。

日当たりもそんなに良くない。

湿気がこもりすぎる。

 

でも、愛している。

 

長風呂をする狭い風呂場。

お茶のため毎日お湯を沸かすガスコンロ。

ベッドに寝転んで、枕ごしに頭を置くと気持ち良い壁の角。

 

一人で暮らした、私だけの生活の場所。

ここで私は、誰かの何かにならなくていい。

 

仕事のための人間でも、家族のための人間でも、善良な一般市民でもなくていい。

 

私が私で居て、好きに何をしてもいい。

 

そんな私を受け止めてくれた場所。

だから、住む時間が長くなるほど愛着は大きくなる。

引っ越そうと随分前から思っていた。

長くなるほど離れがたくなる。

愛着だけではなくなる。物理的な問題も出てくる。ここだから置いた家具や荷物が増えてしまう。

 

自分の人生は、身軽であるべきだと思っている。

いつでもその場を捨ててどこへでも行ってしまえるくらいの心の身軽さを持っていたい。

 

だが、ここでの暮らしを大分愛してしまった。

それでも、更新時期はやってくる。

そして私は仕事を失うことが決まっている。

何にせよ新しい仕事場には行かなければならない。

 

大人になると、決断の連続だ。

その責任は誰も取ってくれない。

だが、不幸になるも幸せになるも、それが自分のものなのは、良いことだと思う。

 

この部屋から出ることになっても、この部屋を愛していたことを私はきっと覚えている。

 

 

お前の言葉は届かない

 

なんだか気が滅入っている。

 

私は極端に説明が下手だ。

説明どころか日常会話レベルの意志疎通すら、よく失敗する。

私にとって言葉は、他人には通じないものとなり久しい。

 

それでも一部の友人や、家族には通じていた。

なのでその通じる人との間で、通じないストレスを抱くことはほとんどなかった。

 

それが、通じないかもしれないと最近はっきりと思うようになった。

そう思う出来事が重なった。

ひとつひとつはとても些細なものだった。

 

恐らく、私は怠慢を働いた。

この人たちにはどんな言葉を雑に吐いても、全て伝わるから、だからいいだろう。

でも、伝わらないときはどんな人にも伝わらない。

伝わるように話さないと、どんな人にも伝わらないのだ。

 

それがすごく淋しい。

あんなに、わかってくれた人にすら、私は他人にするような、説明に説明を重ねたような言葉を使わなければならないのか。

 

こんなの、私のわがままだと思う。

大の大人が抱くには子どもすぎる。

それでも、どうしてだ!と思う。

どうして、私の言葉はこんなに伝わらないのか。

 

仕事をしていると、通じないことが常で、通じることの方が稀だ。

だからひたすら、わかるようにわかるようにと頭のなかで沢山のシミュレーションを重ねる。

それでもいつも伝わらない。

何を言っているんだろう?という顔をされる。

それはいつものことだから、私はまた1つずつ言葉を重ねていく。

途中で遮られ、わかったわかったとうんざりされる。

そして、結局間違ったことをされたりする。

伝わってなかった。

今度こそ。

そして言葉はまたガチガチに構築されていく。

簡単なやりとりで済むはずのことに、そんな沢山の言葉は蛇足となり、余計に伝わらなくなっていく。

 

また伝わらなかった。

これがきっとずっと続く。

 

チリのように、うっすらとした失望が積もり続ける。毎日繰り返せば、それは明確な失望になる。

私の言葉は、機能しない。

 

まあいい、本当に大切な人たちにさえ通じれば、私はどうにかやっていける。

 

 

ある出来事について、あなたなら、きっとわかってくれるはずだと、相手を信じて手紙を書いた。

先月のことだ。

長年の友人だった。

とても大切な人だった。

長らく会ってはいない。少しずつ話すことが噛み合わなくなってきたとは思っていた。

 

返事はきた。

返事がきただけ御の字かもしれない。

それでもあまりに何も伝わっていないような内容に、とてもがっかりしてしまった。

あなたにまで、通じないのか。

 

 

そこが皮切りで、それまで通じていた人との言葉のコミュニケーションが上手くいかなくなっていると気付いた。

いや、言葉というか、言葉に乗せた感情を受け取ってもらえなくなった。

 

全部、全員ではない。

ずっと昔から変わらず同じ調子でわかってくれる友人もいる。

本当にありがたいと思う。

 

でもだからこそ、そうでなくなってしまった人と、一体どこでそうなったのかわからない。

私が見過ごし続けただけなのか。

 

 

私の言葉は、そんなに無力なのか。

 

 

私の言葉が、なかったことにされる。

それは、私の伝えようとした気持ちがなかったことになることだ。

 

これできっとあなたになら伝わるだろう、と言ったことが伝わらない。

私があなたを信じたことが、なかったことになる。

 

言葉を無にされるのが、どうしてこんなに堪えるのか。

 

これが自作の詩や物語なら別にいいのだ。

私の中のことを、他人に必ずしもわかるように書かないから。

伝わらなくてもいいし、好みじゃなくてもいい。間違った解釈をされても構わない。

 

でも、人に向けて使った言葉は違う。

あなたに向けて、あなたに通じるように、無数の言葉から選んで並べた。

 

そこを無下にされたら、傷つく。

 

そうだ、私は傷ついたのだ。

自分勝手だろう、でも傷ついた。

私の気持ちをなかったことになんてしないでほしい。

 

 

だが、きっとこれは諦めなければならないことなんだとわかる。

もしこれを人に話したとして、こんな気持ちをいちいち抱いていたら、周りの人たちは、私の言葉を履き違える度に、私の逆鱗に触れたのでは?とギスギスするだろう。

 

私に必要なのは、誰にでもわかるように話すことを怠けないことだ。

それを淋しいと思わなくなること。

 

そして、数少ないすぐわかってくれる人のことを大切にすること。

 

今はまだ元気は出ないが、元気になったら少しずつこの淋しさを手放したい。

 

私の言葉はどうせ通じない。

早く諦めて、その次のターンへ行こう。

 

 

冷たくて綺麗な

 

住んでる地域に雪が降った。恐らく初雪。

雪が降ると、雪の匂いがする。

この匂いってなんなんだろう、きっと科学的にとっくに言われてるのだろうと思い、「雪 匂い」で検索してみた。

明確なこれといった記事は出てこなかった。

だが、この雪の匂いという感覚を持つ人は一定数いるようだ。

 

なんとも説明しがたいが、冷えた空気にはっきりと雪の匂いがする。

ちょっとほこりっぽいような気もする。

でもずっと嗅いでいたいような、スッキリした匂いだ。

 

ふと、実家には夏の匂いがあることを思い出す。

実家は田舎だが、住宅街だ。

それでも、今住む街(比較的都会)には無い匂いがする。

自然由来の匂いだ。

水と草の匂いのような気がする。

苔の匂いなのかもしれない。

湿度の高い空気に香り、さっぱりとはしていない。

それを嗅ぐと、泣きたいような気持ちになる。

猛烈に懐かしい気持ちになる。

実家を離れてから夏に帰省するたび、年々この匂いが郷愁を誘ってくる。

 

地元の季節には、匂いがあった。

山や海に囲まれた街だったからかもしれない。

それらしく建物は並んで、街が作られていても、私達はこの場所を間借りしてるに過ぎない。

自然は常に圧倒的だった。

その主張の1つのように、季節は香る。

花や木々が芽吹き、日差しが柔らかく当たって、春の匂いになる。

涼しくなった空気に、染めかけた葉の匂いがまじって、秋の匂いになる。

 

雪の匂いを嗅ぐと、静かな気持ちになる。

しんしんと降り注ぐ雪の中、一人でそれを見ていたことが多かったからかもしれない。

 

寒さは苦手だし、冬は憂鬱だ。

子どもの頃ほど雪にテンションは上がらない。

ただ、それでも雪が降って、この匂いを嗅ぐと、静かにワクワクする。

 

豪華な花と言われたくないセリフ

 

推しの舞台を観に行った。

これで三回目だ。

長年のファンや、もっと足繁く通っているファンからしたらぬるすぎる応援の仕方だろうが、自分にしては熱心な方だと思う。

 

印象的だったのが、ロビーにあった花。

プロの舞台を観に行って初めて、舞台でも花を送るという慣習を知った。

関係者からのものもあるが、ほとんどが出演者のファンからのものだ。

 

推しへの花もあった。

前回・前々回と明らかに花の豪華さと数がグレードアップしていた。

ご本人が好きだと言っていた色をイメージしたものや、結婚式を彷彿とさせるようなものもあった。

一つ一つ、とても凝っていて見る分には楽しく美しかった。

 

はっきりと、推しの知名度も愛され方も急速に変化していることが、形として見えた。

 

花は、詳しくない私にも、安くないことがわかるほどのものばかりだった。

しかも一つ一つに、送り手から推しへの思い入れが見てとれる。

 

これ、真正面から受け止められるかって才能じゃない?

そんなことを思った。

 

後に、推しはSNSで花が嬉しかったという旨の発言をしていたので、多分才能があると思う。

愛を受け止める才能だ。

人気が左右する職業である以上、演技の才能と同じく大切なもののように思う。

色々な才能が噛み合わないと、続けることができない仕事なのかもしれない。

無責任な立場からそんなことを勝手に思った。

 

 

そして肝心の舞台だが、面白かった。

しかし私には合わなかった。

面白いと合わないが共存することもあるんだな、と発見だった。

 

作中で、私の倫理観にそぐわない部分が多々あった。

書き手の、言ってしまえば無神経ともとれる感性がそのまま出てしまっている箇所が散見された。

古い、と思った。

この物語は現代の人間が作り、上演するには古い。

 

仮に、古くて当然の世界観の設定(江戸時代とか)であったとしても、

それを明らかに古いものとして描かないと、現代を生きる観客としては受け入れることができない。

 

この古さを書き手が古いと理解していなかった。

当然の正しさとして描いていた。

それが苦しいと感じた。

 

例えば、家族は愛し合って当然・独身の男女は恋愛をして当然・一人は寂しい存在・そこからはみ出た者はギャグとしていい、みたいなこと。

 

なぜ面白かったと感じたかというと、世界観の設定や話の構成が良かったからだ。

所々の演出や緩急も良く、細々したギャグやテンポのよさは楽しかった。

勿論演者も良かったし、セットがとても凝っていた。

 

ただ、それでも合わないものを受け入れることはできない。

 

中盤あたりで、これは私には合わない物語だなと思っていたときに、推しが、私の倫理観からはずれたセリフを言った。

あー見たくなかった!!!

そう思ったことに驚いた。

あくまでも、演技上の必要なセリフにすぎない。

それでも、ちょっとへこんだ。

 

これが、例えば悪役が口にする、「人間なんて皆殺しにしてやるぜ!」とかなら全然いいのだ。

悪いとされている役どころの、悪いセリフだから。

 

推しのキャラも言ったセリフも、そうではなかった。

ごくありふれた、何気ない楽しげな会話の一つとしてのセリフだった。

 

例え演技であっても、そんなセリフを言って欲しくなかった。

この心理が一体なんなのか、自分でもまだよくわからない。

 

そんなセリフを推しの体を通して言わせないでくれないか。

 

だが、今後こういったことは推しが役者さんである以上絶対に起こり続けることだろう。

私にとって良いものが、他の大勢のお客さんにとって良いものとは限らない。

現に、この私には合わなかった舞台だが、周囲のお客さんの八割位は感動して泣いていた。

どういうこと!?

と思ったが、どうもこうもない。

私には合わなかった、それだけだ。

 

野菜がなくても怒らないから

 

※以下、キャベツ農家さんやキャベツを愛する人は読まないでほしい

 

 

 

コンビニやスーパーの弁当に入ってるキャベツの千切りを私はほとんど口にしない。

キャベツ農家さんにおかれましては、慎んでお詫び申し上げたい。

だが、あれは、本当に必要か!?と毎回思う。基本的には食べ物を残したくない。もったいない。断腸の思いで残している。

キャベツ自体はわりと好きだ。

なぜ、この鮮度のクオリティのキャベツを、わざわざ生で!千切りで!弁当におさめるのか!!

 

揚げ物の下敷きになっている、真っ白な硬いキャベツ。

本来の君は、そんな姿にならなくて良かったはずだ。

 

わかるよ、火を通せばコストがかかるし、ドレッシングをかければドレッシング代もかかるしその分栄養バランスが悪くなる。

 

ならいっそ入れないでくれ。

野菜をいれましたよ!のアリバイ作りとしてキャベツを敷くのをやめてくれ。

キャベツは敷物じゃない。

敷物を食べたいとは思えない。

 

バランをいれてる肉だらけの弁当。

潔い。素晴らしい。グッジョブ。私は君を支持する。

緑が足りないならバランを置けばいい。

または緑が足りないという視点をやめよう。

緑など足りないなら足りないでいい。

毎日足りないのは良くないが、たまに食べる分には良いさ。

 

どうしてキャベツの千切りはこうも弁当界のスタンダードになってしまったのか。

ぜひ今一度考え直してはくれないだろうか。

 

そのキャベツ、本当に千切りでいいんですか?

単なる一人の人間と思って

 

若い女扱いが苦手だ。

苦手というか、傷つく。

現在の私はすごく若いわけでなく、人によってはもう若くないだろラインの年齢だ。

しかし、誰から見ても若いとされる頃から、若い女として扱われるとすごく心が消耗された。

なぜかはわからなかった。

 

消耗されることに気付いてから、私は私の女性らしさを消すようになった。

女だとばれてはいけない。

傷つけられてしまうから。

しかし誰の目から見ても私は女だ。

ばれるもなにも明らかに女だ。

 

ただ、それでも。

 

薄い化粧しかしない。

基本的にパンツしか履かない。

ヒールも履かない。

 

かといって、自分が男だとはもっと思わなかった。

じゃあ、私はなんなんだろう。

 

たまに気分転換に、甘めの色合いの、はっきりとした化粧をしてワンピースを着てみる。

女装だな、と思う。

女の物真似をしている何かだと思う。

 

日替わりで老若男女になれたらいいのにと思う。

皆そうなったら愉快だ。

 

 

二十歳の頃、一時だけ居酒屋でホールのバイトをしていた。

ほとんどのお客さんは普通に飲み食いして帰っていくだけだったが、一部の酔っ払った客に数回しょうもないセクハラ発言をされた。

セクハラ発言だけでなく、威圧的な態度をとられて怖い思いをしたこともあった。

一度、酔っ払った上客が帰る際に、別れのハグと称して抱きついてきた。

私の上司にあたる人もその場にいたが、別れのハグだしなって感じで、笑って見ていただけだった。

 

私の時給にはこういうことも含まれているのだから仕方ない。

そう解釈した。

 

どうして嫌な目にあうのかといえば、私が若い女だからだ。

もし私が屈強な見た目の中年男性だったら、こんな目には遭わなかった。

 

バイトは早々に辞めた。

それくらい日常茶飯事よ、と流せる人も沢山いるだろう。

それでも私は無理だったし、これを許容する自分になることが嫌だった。

 

 

「生物学上女です」という言い回しを揶揄するインターネット上の風潮があったが、私は未だにこれ以上ぴったりくる性別の自称方法がわからない。

生物学上は女だ。

この身体に違和感を抱いたことはなく、むしろ愛着もある。

 

だが、「あなたは女性ですか?」

と聞かれたらなんだか躊躇してしまう。

 

性別は、単なる雌雄を表すものじゃないことが多い。

社会的な役割がくっついてくることをいつの間にか私達は知っている。

 

でも、その役割ってなんなんだろう。

居酒屋の安い時給でセクハラを許すことなのか。

そんなわけないはずだ。

 

居酒屋で、酔っ払った客が廊下を歩きながら手を繋いできたことがあった。

「一緒に歩きましょうよ。」

ここで断って文句を言われても面倒だし、廊下はほんの数メートルの距離だから我慢しようと、手を繋いだまま歩いた。

「年いくつ?」

客が聞いてきた。

「いくつに見えますか?」

お決まりの返答を笑顔でした。

自分の振る舞いに内心ヘドが出そうだった。

「24、25かな~?」

「残念、20ですよ。」

私が答えた瞬間、その客は私の手をパッと離した。

「あっそうなの。娘と同い年だ。あはは。」

客は決まり悪そうに自分の席に戻っていった。

娘と同い年だから何だというんだ。

最後の最後で人間味を見せてくれるなよ。

やるなら最後まで嫌な客で居てくれ。

娘にできないことをするな。

私も誰かの娘なのだ。

 

 

それからバイトを変え、露骨なセクハラを受けるようなことはなくなった。

それでも、若い女じゃなければ遭わなくて済んだ嫌な目は無数にあった。

就職してからも同じだ。

酔っ払った客が繰り出してくる攻撃ほどはっきりした形ではない。

これは社会において性別年齢問わず誰でも受ける理不尽ですよ、というような見た目をしてやってくる。

叩き割ってみれば、それは結局酔った客がしていた攻撃と本質は同じものだった。

 

 

若い女に背負わされるものがあるように、若い男にも不当に背負わされるものがあるだろう。

中年世代にも、さらに上の世代にも、それぞれの理不尽があるだろう。

 

屈強な見た目の中年男性には、屈強な見た目の中年男性の苦しみがあるはずだ。

 

男らしく、女らしく、○才らしく、立場をわきまえて

 

はあ?っていう思いをいつからか明確に抱えるようになった。

私は怒っていたのだ。

ずっと。

セクハラが時給に含まれると諦めなければいけなかった自分も、そんなことを思い込ませた社会も。

 

性別も年齢も記号にすぎない。

私もあなたも、一人の人間だ。

 

それを無視され、記号を振りかざされたときに心が消耗する。

まだ足りなかったのか、と思う。

まだ女や若さを消す努力が足りなかったのか。

 

そんなことしないでいいはずだ。

私は好きな格好をしていい。

それなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。

早く解放されたいと思っている。

どうすれば解放されたことになるんだろう。

 

 

ごくまれだが、私のことを好いてくれる男性が現れる。

好意を持ってくれたことを嬉しいと思う反面、居心地が悪い。

私を女性として好きだと言うからだ。

当たり前なのに、それを素直に受け入れられない。

女性らしく振る舞わないといけないと思い、できるだけそう振る舞うたび、嘘をついている気持ちになる。

これがずっと続くのかと思うとゾッとする。

私はこんな人間じゃない。

そう思って、可愛いと言われそうになったら、茶化すようなことをしたり、「可愛い」が相殺されるようなことを言ったりした。

私は女性ではないので、宜しくお願いします。

そんな気持ちを込めていた。

だが、それはそれで無理をしている状態で、結局上手くいかなくなる。

 

私はあなたと人間として恋がしたい。

恋愛においてそれは矛盾なのだろうか。

 

 

私は早く人間になりたい。

誰の目から見ても、人間になりたい。

若い女でなく、人間になりたい。