まだ寝てていいよ

思いついたことをテキトーに

野菜がなくても怒らないから

 

※以下、キャベツ農家さんやキャベツを愛する人は読まないでほしい

 

 

 

コンビニやスーパーの弁当に入ってるキャベツの千切りを私はほとんど口にしない。

キャベツ農家さんにおかれましては、慎んでお詫び申し上げたい。

だが、あれは、本当に必要か!?と毎回思う。基本的には食べ物を残したくない。もったいない。断腸の思いで残している。

キャベツ自体はわりと好きだ。

なぜ、この鮮度のクオリティのキャベツを、わざわざ生で!千切りで!弁当におさめるのか!!

 

揚げ物の下敷きになっている、真っ白な硬いキャベツ。

本来の君は、そんな姿にならなくて良かったはずだ。

 

わかるよ、火を通せばコストがかかるし、ドレッシングをかければドレッシング代もかかるしその分栄養バランスが悪くなる。

 

ならいっそ入れないでくれ。

野菜をいれましたよ!のアリバイ作りとしてキャベツを敷くのをやめてくれ。

キャベツは敷物じゃない。

敷物を食べたいとは思えない。

 

バランをいれてる肉だらけの弁当。

潔い。素晴らしい。グッジョブ。私は君を支持する。

緑が足りないならバランを置けばいい。

または緑が足りないという視点をやめよう。

緑など足りないなら足りないでいい。

毎日足りないのは良くないが、たまに食べる分には良いさ。

 

どうしてキャベツの千切りはこうも弁当界のスタンダードになってしまったのか。

ぜひ今一度考え直してはくれないだろうか。

 

そのキャベツ、本当に千切りでいいんですか?

単なる一人の人間と思って

 

若い女扱いが苦手だ。

苦手というか、傷つく。

現在の私はすごく若いわけでなく、人によってはもう若くないだろラインの年齢だ。

しかし、誰から見ても若いとされる頃から、若い女として扱われるとすごく心が消耗された。

なぜかはわからなかった。

 

消耗されることに気付いてから、私は私の女性らしさを消すようになった。

女だとばれてはいけない。

傷つけられてしまうから。

しかし誰の目から見ても私は女だ。

ばれるもなにも明らかに女だ。

 

ただ、それでも。

 

薄い化粧しかしない。

基本的にパンツしか履かない。

ヒールも履かない。

 

かといって、自分が男だとはもっと思わなかった。

じゃあ、私はなんなんだろう。

 

たまに気分転換に、甘めの色合いの、はっきりとした化粧をしてワンピースを着てみる。

女装だな、と思う。

女の物真似をしている何かだと思う。

 

日替わりで老若男女になれたらいいのにと思う。

皆そうなったら愉快だ。

 

 

二十歳の頃、一時だけ居酒屋でホールのバイトをしていた。

ほとんどのお客さんは普通に飲み食いして帰っていくだけだったが、一部の酔っ払った客に数回しょうもないセクハラ発言をされた。

セクハラ発言だけでなく、威圧的な態度をとられて怖い思いをしたこともあった。

一度、酔っ払った上客が帰る際に、別れのハグと称して抱きついてきた。

私の上司にあたる人もその場にいたが、別れのハグだしなって感じで、笑って見ていただけだった。

 

私の時給にはこういうことも含まれているのだから仕方ない。

そう解釈した。

 

どうして嫌な目にあうのかといえば、私が若い女だからだ。

もし私が屈強な見た目の中年男性だったら、こんな目には遭わなかった。

 

バイトは早々に辞めた。

それくらい日常茶飯事よ、と流せる人も沢山いるだろう。

それでも私は無理だったし、これを許容する自分になることが嫌だった。

 

 

「生物学上女です」という言い回しを揶揄するインターネット上の風潮があったが、私は未だにこれ以上ぴったりくる性別の自称方法がわからない。

生物学上は女だ。

この身体に違和感を抱いたことはなく、むしろ愛着もある。

 

だが、「あなたは女性ですか?」

と聞かれたらなんだか躊躇してしまう。

 

性別は、単なる雌雄を表すものじゃないことが多い。

社会的な役割がくっついてくることをいつの間にか私達は知っている。

 

でも、その役割ってなんなんだろう。

居酒屋の安い時給でセクハラを許すことなのか。

そんなわけないはずだ。

 

居酒屋で、酔っ払った客が廊下を歩きながら手を繋いできたことがあった。

「一緒に歩きましょうよ。」

ここで断って文句を言われても面倒だし、廊下はほんの数メートルの距離だから我慢しようと、手を繋いだまま歩いた。

「年いくつ?」

客が聞いてきた。

「いくつに見えますか?」

お決まりの返答を笑顔でした。

自分の振る舞いに内心ヘドが出そうだった。

「24、25かな~?」

「残念、20ですよ。」

私が答えた瞬間、その客は私の手をパッと離した。

「あっそうなの。娘と同い年だ。あはは。」

客は決まり悪そうに自分の席に戻っていった。

娘と同い年だから何だというんだ。

最後の最後で人間味を見せてくれるなよ。

やるなら最後まで嫌な客で居てくれ。

娘にできないことをするな。

私も誰かの娘なのだ。

 

 

それからバイトを変え、露骨なセクハラを受けるようなことはなくなった。

それでも、若い女じゃなければ遭わなくて済んだ嫌な目は無数にあった。

就職してからも同じだ。

酔っ払った客が繰り出してくる攻撃ほどはっきりした形ではない。

これは社会において性別年齢問わず誰でも受ける理不尽ですよ、というような見た目をしてやってくる。

叩き割ってみれば、それは結局酔った客がしていた攻撃と本質は同じものだった。

 

 

若い女に背負わされるものがあるように、若い男にも不当に背負わされるものがあるだろう。

中年世代にも、さらに上の世代にも、それぞれの理不尽があるだろう。

 

屈強な見た目の中年男性には、屈強な見た目の中年男性の苦しみがあるはずだ。

 

男らしく、女らしく、○才らしく、立場をわきまえて

 

はあ?っていう思いをいつからか明確に抱えるようになった。

私は怒っていたのだ。

ずっと。

セクハラが時給に含まれると諦めなければいけなかった自分も、そんなことを思い込ませた社会も。

 

性別も年齢も記号にすぎない。

私もあなたも、一人の人間だ。

 

それを無視され、記号を振りかざされたときに心が消耗する。

まだ足りなかったのか、と思う。

まだ女や若さを消す努力が足りなかったのか。

 

そんなことしないでいいはずだ。

私は好きな格好をしていい。

それなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。

早く解放されたいと思っている。

どうすれば解放されたことになるんだろう。

 

 

ごくまれだが、私のことを好いてくれる男性が現れる。

好意を持ってくれたことを嬉しいと思う反面、居心地が悪い。

私を女性として好きだと言うからだ。

当たり前なのに、それを素直に受け入れられない。

女性らしく振る舞わないといけないと思い、できるだけそう振る舞うたび、嘘をついている気持ちになる。

これがずっと続くのかと思うとゾッとする。

私はこんな人間じゃない。

そう思って、可愛いと言われそうになったら、茶化すようなことをしたり、「可愛い」が相殺されるようなことを言ったりした。

私は女性ではないので、宜しくお願いします。

そんな気持ちを込めていた。

だが、それはそれで無理をしている状態で、結局上手くいかなくなる。

 

私はあなたと人間として恋がしたい。

恋愛においてそれは矛盾なのだろうか。

 

 

私は早く人間になりたい。

誰の目から見ても、人間になりたい。

若い女でなく、人間になりたい。

 

 

野菜を炒めて煮た匂い

 

職場からの帰路、ヘロヘロと歩いていたら、周辺から料理中の匂いがした。

野菜を炒めて煮ている匂いだ。

玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ。

カレールーを入れる前のカレーの匂い。

 

匂いを感知した瞬間、バッと昔の光景がよみがえった。

 

昔家族で住んでいた借家は、古く小さな青い家だった。

大家さんの広い庭の一角に建っていた。

私は毎日のように大家さんの広い庭で遊ばせてもらっていた。

夢中で鬼ごっこやらかくれんぼやらしているうちに、辺りは薄暗くなっていく。

 

夕方を知らせる音楽が、電柱に吊るされたメガホンから音割れしながら鳴る。

ふと家の前に立てば、台所の窓が明るい。

家の窓はすりガラスで、母のぼんやりとしたシルエットが動いている。

換気扇からなのか、野菜を炒めて煮た匂いがする。

今夜はカレーだ。

青い家の外壁はトタンで、少し汚れていた。

 

 

匂いを感知して、一瞬だったがこの光景が勝手に目の前で上映された。

匂いは記憶と直結しやすいらしい。

 

カレーライスそのものより、私はこの野菜を炒めて煮た段階の匂いが好きだ。

この香水が売ってたら欲しい。

 

今夜はカレーだという嬉しさがくっついてる匂いだからかもしれない。

遊び疲れて、ただいま!と帰れば、家族とカレーが待っている。

 

 

人類のムダ毛を愛する

 

推しが掲載された雑誌の写真を見ていたら、体毛が確認できないことに気付いた。

他の雑誌も見てみたが、わからない。

 

体毛が目立たない体質という可能性もあるが、他の役者さん達のページも見るに、ほとんどの人の体毛が確認できない。

これだけの成人男性が全員そういう体質とは考えにくい。

つまり、処理するのがスタンダードであるということだ。

 

驚くと同時に、

なんで処理してしまうんだ!!!

という嘆きを抱いた自分にも驚いた。

 

私は男性の体毛が好きだったのか…

 

これは思いがけない発見だった。

しかし考えてみると、女性の体毛も好ましく思っている。

つまり人類の体毛が好きだ。

 

確かに、バービー(人形)ちゃんのようにビシッとツルツルな脚でミニスカートなど履いていたら綺麗だな、とは思う。

そういう感性も私には確かにある。

 

しかし、それよりもちょっと剃り残しがあったり、うっすら生えている方が「良い……」と思う。

 

綺麗=良い、ではない。

 

別に脱毛が悪と言いたいわけではない。

ただ世間的に、脱毛を良しとしすぎなのではないか?と思わずにはいられない。

 

ツルツルな、毛穴さえ一切わからない腕や脚が良いなら、別に人間じゃなくていいじゃんと思う。

そもそも体毛が生えている状態が自然なのだし、よく「ムダ毛」と言われるが、ムダで生えている毛などないだろう。

体の保護で生えているはずだ。

 

生えている状態が自然なのに、どうして脱毛処理をしていないと「汚い」「身だしなみが整ってない」と思われがちなのか。

 

脱毛を良しとする派と同じくらい、体毛そのままを良しとする派を認めてはくれないだろうか。

 

脱毛良し派は、恐らく服を着ることと同じくらい当たり前の身だしなみとして脱毛をしているのだろう。

私も手足を露出する際は、脱毛処理をしてしまう。

やはり見映えが気になってしまうし、体毛があるだけで「なんだこの人」と思われてしまうなら損だからだ。

ただ、本当は生やしたい。

生えている方が格好いいと思う。

皆、生えていた方が格好いいと思う。

 

ならば貫けばいいのに、半端に迎合してる時点で私は何かに負けている。

まだまだだ。

 

だが、推しと推しの事務所には、脱毛処理をしているのであれば一刻も早く止めていただきたい。

私のために。

 

 

というか、皆そんなにツルツルに価値を見出だしているのだろうか。

いっせーのーで、で辞めてくれないだろうか。

私は人類のムダ毛が好きなんだ。

 

 

占いに向いてないということは言える

 

「あなたは人よりもエネルギーが余ってるので、少し忙しい位の仕事をしてないと消化不良になるわね。」

前職を辞めてしばらく無職をしていた頃、占いでそんなことを言われた。

前職は(自分の体感では)比較的忙しい環境で、調子を悪くし退職した。

忙しい仕事は向いていないと思っていた。

次に仕事をするなら、できるだけ体力的に優しく、定時で帰宅できる職業が良い。

そう思って就職活動をしていた最中だった。

 

私が希望する職種を聞いた占い師は、

「あんまり向いてないわね。」

ともう少しオブラートに包んだ言い方だったが、そう言った。

「じゃあ、どんな仕事が向いてますか?」

私が聞くと占い師は少し考え答えた。

「美容師がいいと思うわ。」

その一言で私はこの占い師を信じないことにした。

美容室と私の精神的距離感は、地球から冥王星くらいだ。

お洒落への関心度ランキング(全国民対象)を作ったら、下位にいく自信がある。

 

なので、言われたことはさっさと忘れてしまおうと思ったが、思いの外忘れることができない。

性格の問題だと思うが、私は占いに縛られやすい。

というか、他者の言葉に縛られやすい。

あなたってこういう人間ですよね、と言われることが少ないからだろうか。

自分で自分のことがわからず、自信がないからだろうか。

 

あなたはこういう人間ですよ、と損得勘定のない間柄の、全くの他人(占い師)が言う。

それは案外鋭く心に刺さる。

 

 

その後私は、占い師に向いてないと言われた希望の職種に就職した。

向き不向きは、よくわからないままだ。

 

昔読んだ本の受け売りだが、大概のことは「どちらかといえば向いてる・向いてない」程度のラインを行ったり来たりするだけだというのが、私の考え方だ。

たとえ美容師になり天職というほど向いていたとしても、向いていないかも!と思う瞬間は必ずあるんじゃないだろうか。

 

学生時代のアルバイトから、私はどこで何の仕事をしていても、めちゃくちゃ仕事ができるわけではなく、むしろ並みより色々できないが、居ないよりは居た方が良いような、そんな感じだった。

そしてどこも、辞める間際まで引き止められようとも、私が居なくなって潰れる職場なんて一つもなかった。

私一人辞めたところで、本当に全然どうにでもなる。

 

じゃあ次は何の仕事をしよう?

わからない。

どこで何をしても、そんなに変わらない私は、何をすればいいんだろう。

 

美容師が天職なのはデタラメだと思うが、冒頭に言われた「消化不良になる」は、あながち間違ってないと最近感じる。

 

体力はない方だ。

立っている時は常に「座りたい」と思っている。

座っている時は「横になりたい」と思っている。

だから、「人よりエネルギーが余ってる」という言葉も全然信じていなかった。

 

転職先の職場環境は、体力的に優しかった。

仕事外の自分の時間も十分に確保できる。

仕事から帰って、途中スーパーで食材を買い、まだ夕暮れのうっすら明るい部屋で味噌汁やおかずを作る。

洗濯機を回し、夕方のテレビ番組を流しながら夕飯を食べる。

寝るまでは好きに過ごせて、長風呂しながら読書もできる。

 

なんて、穏やかな暮らし。

家事をする余力のある生活を送れるだなんて!と最初のころは感動していた。

私はやっと人間としてスタートラインに立ったのだと思った。

 

それなのに。

この暮らしが続けばいいと思えなくなってきていた。

 

なんだかつまらない。

死んだように眠る時間が積み重なった。

 

それにも飽きた頃、推し(過去記事参照)にはまった。

しかし、推しを追う活動にも限度がある。

毎日のように情報の発信があるわけではない。

過去に配信された動画などを繰り返し観ては、なんだか頭がモヤモヤとしていく。

 

推しがどうということじゃない、推しはいつでも輝いている。

問題は私だ。

 

 

「エネルギーの消化不良」

 

 

じゃあ、また心身を狂わせるほどの仕事をしたいのか?

それは嫌だ。

どこへ行こう。何をしよう。

 

エネルギーを消化不良にせず、忙しさに殺されることのない仕事なんてあるのか。

 

 

推しの新しい仕事が決まった。

嬉しい!という気持ちと同時に、何かヒヤリとした感情が湧いた。

なんだろうと探ると、それは嫉妬だった。

驚いた。

役者さんである推しと、自分の仕事は何も共通項がない。

仕事を愛し向上心をもち努力をしている推しに、何の努力もしていない私が。

そもそも立っている土俵が全然違うし、嫉妬というのはもっと身近な人間に対して湧くはずの感情だ。

 

なんだろう、これは良くない気がする。

自分の感情の整理はつかないが、それだけは思った。

 

「夢を叶えたい。」

というようなことを時折推しは口にした。

私はそれを応援している。

新しい仕事が決まり、思っていた以上のスピードで、推しは夢を叶えていこうとしていることに気付いた。

当たり前だ。夢は叶えるものだ。早い方がいい。

叶えるための努力も、きっと見えないところでめちゃくちゃしていることだろう。

 

 

そんな瞬間が、自分の人生には一秒でもあったのか。

 

 

私は、変わりたいんだと思う。

どこへ行っても変われない私から、変わりたい。

 

走る

 

6~7月、腹に据えかねることがあり、精神的にまいっていると感じていた。

過去に何度かメンタルをやっているので、その兆候をびんびんに感じて、このままではまた自律神経が狂う!!と怯えた。

 

走りに出た。

もう何も考えたくなかったが、家でじっとしていると頭の中がノンストップでストレス要因のことを延々に考えてしまう。

なので、走りに出た。

 

私は匿名ラジオのファンなので、匿名ラジオを聴きながら走った。

匿名ラジオは一回がだいたい10分前後で、どれくらいの時間走ったかの目安にもなる。

 

走りに出るのは夜、それも22時前後が多かった。

人通りの少ない夜道を、ひたすら駆けた。

 

運動と縁の無い十代だった。

運動能力皆無。

部活はずっと文化部。

体育は基本的に心を無にして挑む。

 

高校を卒業し太ってきたため、二十歳前後はまれにジョギングやウォーキングをしていた。

 

それもパタリとやらなくなって久しかった。

しかし身体は、その時ぬるく覚えた呼吸法や足の動かし方を覚えていた。

走ると、身体が前へ前へと動く。

 

 

日常的にろくに運動していない身体では、すぐに息が上がった。

苦しくて何も考えられなくなる。

匿名ラジオの愉快な会話だけが耳元で再生され続ける。頭にまでは届かない。

 

そう長くは走れない。せいぜい20分だ。

帰宅すると、汗がひたすら流れる。

ヒートアップした身体を落ち着けるために整理運動をし、深呼吸。

身体は心地よい疲労感に包まれた。

 

この一時だけは、ネガティブなことから解き放たれる。

苦しかった、気持ちよかった。

それだけになる。

 

健康な身体に、健全な精神が宿るのはあながちデタラメではないのかもしれないとその時感じた。

連夜走っていたら、憂鬱に心を支配されることはなかった。

文字通り逃げきったと思う。

 

7月以降は、連日の猛暑で走りに出るのはデッドオアダイといった状況で、結局習慣にはならなかった。

だが、また憂鬱に押し潰されかけた時は走りに出ようと思う。

何度でも逃げ切ろうと思う。

 

 

秋だ

数日前、玄関のドアを開けた瞬間にキンモクセイの香りが飛び込んできた。

秋だ。

 

数週間、毎日が楽しみで寝つきが異常に悪かった。

だが身体は軽かった。

眠らなくても元気だと思った。

 

だが、秋だ。

秋の到来と共に私の身体は平時の状態を取り戻したらしい。

眠らないと身体はだるい。夜に眠気もちゃんとくる。

 

一つ前の記事で、推しへの気持ち・応援スタンスへの戸惑いを書き連ねた。

それもこの秋の到来とともに、穏やかなものになった。

今まで通り好きなことには変わらないが、本人に迷惑をかける可能性を感じるほどの熱烈な感情はない。

 

 

飲み物を、冷たいものから温かいものに変えた。

温かい飲み物は、飲むと胃に落ちてそこからじわりと身体を暖かくする。

 

夏は、漠然と焦る。

何かをしなければならないような、追い立てられる気持ちになる。

暑さと、晴ればかりな気候。

謎の無敵感みたいなものが湧いてきて、やたらに活動したりする。

 

夏を手に入れなければならない。

私だけの夏を。

今年こそ手に入れなければならない。

 

そして夏は終わる。

大抵何も手に入らないまま、夏は終わる。

 

秋は突然始まる。

夏の終わりを引き摺った私の時間が、キンモクセイの香りでぶった切られる。

 

ここからはもう、秋です。

 

秋は、どことなく孤独だ。

寂寥感というものなのか。

だが、それは嫌なものじゃない。

馴染みのある、私だけの孤独と自由がある。

何かに急き立てられることもない。

私だけの秋を、毎年ちゃんと手にしている気がする。

もうすぐ寒さに葉を散らす木が、静かに染まっていく。

夏場に見られる勢いはない。

淡々と日を浴び、そこにある。

 

さあ、眠ろう。

血湧き肉躍るばかりが、楽しいということではない。